[コメント] 小早川家の秋(1961/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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小津安二郎54本の監督作品のうち、たった3本しかない松竹以外の作品。 いわば他流試合。そのせいかどうか、大阪出張(笑)。
東宝に(藤本Pに)三顧の礼で請われたとかで、なんとまあ豪華キャスト。新珠三千代とか団令子とか。2代目中村鴈治郎なんかキャビア喰ってるからね。ん?鴈治郎は大映だったか?
そういった目で見ると、役者陣が適材適所なんですよね。全員が全員「らしい」役を割り当てられて「らしい」役を演じている。 もっとも、モリシゲはアドリブを禁じられてフラストレーションが溜まってたそうですが。
嫁に出すだの出さねーだの毎度毎度小津作品は同じようだと言われがちですが、私は最近強く思うのです。 実は小津作品は「世相」を取り込むことが多く、「世の中の変化」「時の流れ」を描いていると。そして、「人の心」といった「世の中に流されない変わらない何か」を描き続けたのではないか、と。
「今の若い人のことはよく分からないけれど・・・」 という原節子の台詞が一つの象徴のように思います。
親の勧める結婚よりも自分の好いた人と結婚しようとする「新しい時代の女性」司葉子。 それを応援しながらも自らは貞淑な未亡人であり続ける「少し前の時代の女性」原節子。 2つの結婚話は2人の女性、いや、おそらく家のために婿養子をもらった新珠三千代も含めて、変化する時代の異なる3人の女性像を浮かび上がらせるための設定だったに違いありません。 可哀想に、モリシゲはアドリブも禁じられた上にただの当て馬に過ぎなかったのです。
ささやかれる「合併」話。そして終盤突如登場する笠智衆に語らせる「輪廻」。 小津はこの映画で「世の中の変化」「時の流れ」に執拗にこだわっている気がしてなりません。
この映画は、遺作の1本前に当たります。多くの方が指摘されている通り、やたら「死」のイメージがつきまとう作品です。 翌年に最愛の母を亡くし、自身も2年後に60歳でこの世を去るのですが、なにやら小津は予感めいたものを感じていたのかもしれません。
死んでいく鴈治郎と残された家族。 死んだ夫を忘れずに未亡人であり続ける原節子。 小津は、あまり作品に自己投影しない印象がありますが、この映画は少し様子が違います。 母の死期を予感してか、あるいは自身の死期を予感してなのか、死ぬ側と残される側両方に、何やら小津自身の強い想いが見え隠れしている気がするのです。
まるで、「死を忘れないでいてくれる存在」を求めているかのように。
(2021.01.01 早稲田松竹にて鑑賞)
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