[コメント] ブラック・ダリア(2006/米=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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デ・パルマの思考についていつも意識して考えるのだが、要するにこの人はヒッチコックから抜け出ることができない。そして、自らドラマを生み出すことができない。脚本が書けない。だから技巧に走るしかない。そういう人なのだ。
いずれの映画も映画会社から与えられた原作であって、それを自らの技巧で撮ろうとする。そしてその基礎にはどうしてもヒッチコックがいるのだ。
ヒッチコックもそうだった。彼も映画会社から与えられた素材を自らの技巧で映画を生み出そうとする。そして数々の”映画的な”表現を生み出し、歴史にその名を残した。そしてヒッチコックの場合、英国人としての辛らつなジョーク。痛々しいほど辛らつなジョークが映画全体にはびこっている。さらに、彼の生み出した「見せない」ことによる恐怖。この恐怖を意識した映像が見る者を惹きつけるのだ。
さてデ・パルマはどうだろう?
この作品で見せる彼の魅力はどこにあるのか。アンタッチャブルやミッション・インポッシブルで表現されたスローモーションを使った印象的なシーンや、影を用いたシーン、ナイフの輝く光、ヒッチコックの『めまい』を思わせるらせん階段の落下シーン。いずれも印象の強い美しいシーンである。映画全体が当時の情景を思わせる宝石にようで美しい。技巧に走るデ・パルマの思惑が随所に生かされている。
しかし、どうしてもヒッチコックと比較してしまう点がある。それは「見せる恐怖」と「見せない恐怖」だ。少なくともヒッチコックは、その恐怖を見せないことによって表現し、見る者の想像力をかきたてた。だからそのひとつひとつのシーンが印象的なのは、人それぞれその先にある映像を思い描くことによって作られるからなのだ。
反面デ・パルマの映画が(特に近年)これだけコストをかけて美しく、技巧的な表現で作られるのにもかかわらず、印象に薄いのは「見せる恐怖」によるものなのだろう。彼はすべてを見せてしまうのだ。エリザベス・ショートの死体、マデリーンの自殺シーンなどなど、見せてしまうことでこれだけ美しい映像が品格を失ってしまうのだ。
それでも、これだけの映画を撮れる映画監督はハリウッドといえども多くない。デ・パルマらしい映画であって、この映画を別の監督で撮れば全く違うものになってしまうだろう。そしてデ・パルマがこの映画で常に意識していると思われるのがハリウッドである。ハリウッドの表と裏。この描写を通じて、自分の技巧を見せたかったのかもしれない。
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