[コメント] バッシング(2005/日)
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有子のボランティア活動が、彼女の好意と良心から出発したのは間違いないだろう。しかし彼女は、コンビニのおでんを小分けに入れさせるという非常識を、何の疑いもなく店員に強要してしまうほどの人並み外れた強い意思の持ち主でもあった。それほどの強情さで遂行される良心は、ある瞬間まわりにはエゴイズムとして見える。そしてまた彼女自身も、その境界を見失っていたであろう。
彼女を非難し攻め立てる匿名者達も、ある種の良心を後ろ盾にしている。親や家族との関係を壊すもの、社会常識を乱すもの、公の秩序に逆らうものは悪であり断罪しなければならないという良心だ。それは不特定多数の人が、必要最小限の価値を共有することで成立している世間という集団の防衛本能に根ざした反応であり、これも正論だろう。しかし、その根底には彼女の強い意志と良心に対する嫉妬心という、これもまた自らコントロール不能となったエゴイズムが存在していることも間違いない。
良心とエゴは、実は同根でありコインの裏表のように人の心の中に存在しているという事実。人は一旦その境界を見失うと、自らの心をコントロールできなくなる弱い生きものであるという現実。小林政広は、人にとって見たくない、考えたくない心の弱点をじわじわとあぶり出し、自らも身動きの取れない領域にまで踏み込んでしまったようだ。その時点でこの作品は、間違いなく「心の曖昧さと人の絶望」を描いた傑作となっていた。
しかし、小林政広は優しい人だった。有子と母(大塚寧々)との間に、取って付けたような凡庸な和解を準備してしまった。有子にとって、海外の人たちだけが唯一自分を受け入れてくれる存在であること。初めて「おかあさん」と呼んでくれたことが、継母である自分にとって最大の癒しであること。この陳腐なメロドラマまがいの会話によって、今まで作中に描き込まれてきた強烈な絶望感は一気に霧散してしまった。
「絶望」ではなく「希望」で作品を終わらせたいという作者の願い。これもまた、小林政広という映画作家の「良心とエゴ」の為せるわざだったのかも知れない。
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