[コメント] 虹の女神(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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大切なモノは失って初めて気付くなんていうけれど、実際のところ岸田くんは彼女のことを大切に思っていたんだろうか。
彼女の突然の事故死を知っても、さして驚きもせず淡々と学生時代の日々を思い浮かべるだけ。特に取り乱す様子もない。赤信号を見落とす描写があるけど、知り合いが死ねばそれくらいの動揺はするよね。とても大切な人が死んだという感じが、どうしても伝わってこない。
そもそも、岸田くんは彼女のアメリカ行きを止められる立場にいたわけで。もちろん彼女が死んだのは彼の責任では全然ないんだけれど、彼の「どうしても彼女ともう一度、生きて会いたかった」という気持ちは結局最後まで読み取れなかった。本当に彼が彼女のことを大切に思っていたなら、「なんで死んだんだ!?」→「死んでほしくなかった!」→「あのとき俺が『行くな』って、ひとこと言ってれば……」って後悔が生まれるほうがずっと自然だと思うんだけど。
そう考えてみると、岸田青年はこの映画の中で誰とも真剣に向き合ってないんだ。相田翔子とのエピソードだって、相田が決定的に欠落した人間だったから結婚を思いとどまったけど、普通の女のコが相手だったらあのまま流されて結婚してたでしょう。そんな男に惚れてた佐藤あおいが可哀想だよ。
物語というのは、作り手が見る者に何かを伝えるために作られるべきだと思う。特に人が死ぬ話はそうであってほしいと思う。物語に出てくる人物が死ねば悲しいのは当たり前で、その死を描くことでしか伝えられないメッセージが作り手にある場合以外は、例え映画の中の1キャラクターであっても安易に人を殺しちゃいかんと思う。
作り手はこの映画を通じて、観客にどんなメッセージを伝えたかったんだろう。私は実は、何もなかったんじゃないかと思う。ただ「魅力的なキャラクターが死んだら悲しいから、この展開なら泣けるでしょ?」──そういう提案にしか見えなかった。人の死を金儲けの道具にしているとまでは言わないけれど、創作行為の出発点が「何かを伝えたい」じゃなくて「泣きたい/泣かせたい」という生理的な欲求でしかないような気がして、いささか不快というか、この作品は乱暴な言い方をしてしまえば「映画」というより「性感マッサージ」の類なんじゃないかと感じるのだ。最後の岸田青年の涙だって、単に感情が高ぶったから泣きました、というだけだもの。この青年はどんな女のコ相手でも勃起するしセックスするという設定が与えられているわけで、それと同類の生理現象としての涙だろう、アレは。
確かに佐藤あおいというキャラクターは大変に魅力的で、2時間の映画を支えた上野樹里の芝居は本当に素晴らしかった。だけど、作り手までそのキャラクターに「オンブに抱っこ」状態で、物語を通して何かを観客に伝えるという作業を怠ってしまっては、これはちょっと志の低い映画だなぁと思わずにはいられません。
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