[コメント] ラ・ジュテ(1962/仏)
作家の脳内に生まれる“想像の広がり”は、言葉を媒介として脚本に書き下される段階である程度狭められる。脚本に書き下された“想像の広がり”は、絵コンテに描き出された段階でさらに狭められ、さらに映像にアウトプットされる段階で極限まで狭められる。
これは映画の限界であると同時に、放棄し得ない宿命であるはずだ。
この作品は自らを絵コンテに甘んじさせているに過ぎない。映像以上の“想像の広がり”を獲得しえたとしても、あたりまえのことだ。
だから作家が“映像と映画の可能性を広げた”と自己主張するなら、賛同する気にはなれない。むしろ「すげーネタ思いついちゃったんだけど、金がなくて、泣く泣くこうせざるを得なかったんだよ!」とでも言われたら拍手したい気にはなる。ネタ、アイデアの素晴らしさには目を見張るものがあるからだ。
反論を承知で言うが、この作品は、『12モンキーズ』に感謝するべきだ。テリー・ギリアムが(想像の広がりを抑制する最終段階を踏む事への)覚悟を持って、この本来食卓に並べられる段階ではない食材を調理したことで、最終的に並べられるべき食卓に並ぶ運びとなった。あの映画がこの絵コンテのテイストを保持しえなかったとしても、加熱調理された料理に対し「生の時の味がしない」と文句を垂れるようなものだ。あの映画が、このネタに、映画における役割を全うさせたのだ。
勿論そうかといって、より広義に表現というものの可能性を考えるなら、“台所で、生のまんまを味見したら感じられた、加熱調理すれば失われてしまう味”を無視するのも、それはそれでマイナスだ。一つのマテリアルとしての可能性まで否定できるものではない。他ならぬ、その可能性が結んだ果実である『12モンキーズ』が証明している。
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