[コメント] 街のあかり(2006/フィンランド=独=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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アキ・カウリスマキの絵画のような平面的な絵作りが好きなのだ。『街のあかり』でも、以前の作品と何ら変わらず、他のクリエイターには真似できない映像が流れ続けていた。それを観ているだけで満足できる。
僕が知っているヘルシンキはカウリスマキが撮るヘルシンキのイメージ。近代的な設定でも、携帯電話が登場するとその瞬間に冷めてしまうような、少し古臭い雰囲気。CGでは絶対出せない良さがある。
だが、今作、希望があると評されるわりには、不満が残る内容とも言える。
ラストシーン、主人公はボロボロになりながらも「ここじゃ死ねない」と希望を捨てず、暖かく握り合う手に光が差し込み、幕が閉じる。確かに、僅かな希望を優しく感じさせるラストだとは思うのだが、主人公をここまで貶めた状態で、これがすべてを救う希望になるのか、という疑問が拭いきれないのだ。
原因は2つあるように思える。
まず、“孤独”をきっちり描きすぎた。
映像が醸し出す雰囲気から、主人公の孤独が徹底的に描かれる。それが面白さでもあったのだが、視点が冷たすぎたのかもしれない。僅かな希望では立ち直れないところまで落としてしまった。『マッチ工場の少女』男版とも言うべき内容に希望がついてしまうと、やや違和感を感じてしまう。
そして、ファムファタールに“優しさ”があったことも問題だった。主人公が最後まで信じたのは、自分が惚れた、そして騙された女だった。
彼女の視線にはミステリアスな雰囲気も備わっているが、主人公を気遣う発言を裏でしている場面もあった。そのために、「実は彼女こそ、いい人なのではないか」というあらぬ希望が浮かんでしまう。主人公にとっての究極のゴールとも言える存在に、最後まで含みを持たせていたこと。このために、ラストで来るべき希望に、過度な期待を覚えてしまった。トレーラーの女では、どんな優しさも弱いのだ。なぜなら、主人公はそれを拒絶していたのだから…。
カウリスマキらしい雰囲気を持つ、カウリスマキらしいテーマの映画で良作ではあるが、『浮き雲』『過去のない男』『街のあかり』と続く三部作では、「希望」という面で『浮き雲』が秀でている。
理想主義的だった『浮き雲』に比べ、近作は現実的すぎたために失ったものがあるように感じる。
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