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[コメント] ドライビング Miss デイジー(1989/米)

「ミス」・デイジー(のなかに眠る何か)を「乗りこなしていく」お話。(レビューはラストに言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







人種を隔離していても平等に取り扱ってさえすれば違憲の問題は生じない。そそんな価値観が最高裁で示されても、何の違和感もなかった奴隷解放後のアメリカ社会。隔離の名のもと、日常生活で黒人は常に白人の目の届かないところに追われていった「見えない」存在であった。かつては奴隷州であった南部、主人と奴隷の関係が劇的な変化や転換を見せることもなく、歴史の怨念はその土地に根強く染み込んだままだった。

まるで時から置き去りにされたような静かな邸宅でも、それを取り巻く社会状況とは無縁ではいられなかった。(ある一定の時代と場所を舞台にする以上、それを取り巻く社会状況と無縁でいられるはずがない、という言い方もできる。)本作で映し出された25年もの歳月は、60年代の公民権運動の前後の時代であり、人種をめぐる社会状況が劇的な動きを見せた期間である。

「私には偏見がない」と言い放つ、かつては教育者であった「ミス」・デイジー。黒人が「隠されていく」日常を経ていながら(むしろ経ていたがゆえに)そうした社会構造部分に強い配慮を向けないのなら、実際これほど偏見に満ちた言葉はない。本作はこの見えざる偏見と、時間をかけてじっくりと向き合っていくものである。

人種の問題は、必ずしも公民権などの法律上の差別的取り扱いの問題だけに終始するものではない(もちろん、法律上の権利の平等がはかられることが第一歩であることは言うまでもないが)。19世紀の奴隷解放宣言や60年代の公民権法で法的な部分での解決が試みられても、黒人が、白人と平等な存在として直ちに承認を勝ち取れるわけではない。歴史の残滓はしぶとく留まり続ける。

後半部分、デイジーとホークの関係は単なる主従関係を越えた、友情に近いものが芽生えつつあった。だからこそ、ホークは対等な立場でデイジーとキング牧師の演説を聞きにいきたかったのかもしれない。しかし、デイジーは、同じユダヤの「同胞」を誘うような形で事前に約束を取り交わしお互いおめかしをして出掛けることはせず、運転手の服装をしたままのホークに直前になって突然一緒に行こうと言い出す。そこで為されたはずのキング牧師の演説の趣旨からはあまりにもかけ離れたデイジーの態度。「それならはじめからちゃんと誘ってほしかった」、唐突なデイジーの誘いを断るホークの強いまなざしには、凛とした態度が秘められていた。

承認をめぐる戦いは、そうたやすく解決するものではない。人間の内面というものの御しがたさは、他の映画作品や文学においても取りあげられてきたテーマでもある。(それが、アメリカにおける人種を問題を理解するのは難しいといわれる所以の一つではないだろうか。背景の異なる他国の出来事だから理解しがたいということだけに常に還元されるわけではないと思う。)

肌の色の異なる二人が対等な人間として握手を交わしたからといって、必ずしもデイジーの偏見が完全に取り払われたわけでもなく、黒人が承認を完全に勝ち取ったわけでもない。一方がユダヤ人であり、一方が黒人であることの意味は依然として重い。そもそも、本作におけるホークの存在は一個の人間としてそれほど深く描かれているわけでもない。どちらかというと、デイジーの中の偏見を浮き彫りにしていくための便宜的な存在である要素が強く、そのあたりを批判することは可能だと思う。(実際、スパイク・リーなどは本作についてどのように言っているのだろうか?)

しかしながら、デイジーの中に眠る偏見(とはいえ、それは抜きがたく彼女の人生を構成してきた欠くことのできない一部でもある)と時間をかけてじっくりと向き合い、それらがわずかに変化していった過程を丹念に追っていった本作の姿勢にはどこか心打たれるものがあった。コメディーの意匠を身に纏いつつ、時代や社会状況をほのかに匂わせ、一人の人間の内面や関係性を描いていく本作は私にとっては劇映画における社会背景との理想的な距離のとり方を示してくれた。

*これを書いている私も中立的な立場で語れるわけがない(その意味で偏見にまみれている)、ということは自覚しなければならない。そもそも未亡人を「ミス」と呼ぶこと自体、もしくは「ミス」という呼称そのものが、相当に偏りのあるものなのだろう。このあたりの距離のとり方は結構悩むが…(ただただ言葉を「狩っていく」のもどうかと思うため)。

モーガン・フリーマン は多少オーバーアクトであったようにも感じる(独特の存在感は好きだが…)。心うたれるのは脚本そのものの役柄に負うところも大きく、むしろ強引に彼に賞を授けるほうが、いびつな感じがする。本作が何に焦点をあてていたのかを考えれば、 ジェシカ・タンディの受賞は個人的にはうなずける。

(評価:★4)

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