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[コメント] エイリアン(1979/米)

欧米の怪獣観が如実に出ている。欧米にあっては怪獣は二種類。一つ、『エイリアン』を代表とする感情が欠如した殺人クリーチャー。二つ、『キングコング』を代表とする怪物の器に人間的な感情を持ったが故に哀れみを誘うヒューマン・モンスター。
kiona

 前者はまさに映画の産物です。だとすれば、始まりは何だったのか? 『ゴジラ』? いや、町もろとも踏み潰すのは災害であって、殺人マシーンではない。

 70年代にはとうの昔に失われていた大怪獣の恐怖は、何故失われたかと言えば、怪獣が巨大過ぎたからです。

 リアリティが失われた怪獣の巨大さは、もはや恐怖たりえない。今や恐怖は、踏み潰される恐怖ではなく、食い殺される恐怖、等身大のクリーチャーだ…というのを最初に実証したのは『ジョーズ』だったと言えます。

 恐怖たるために、モンスターは小型化せざるを得なかった。その変遷には、現実に対する人々の恐怖が如実に反映されているように思います。

 大怪獣が、ゴジラが失った恐怖とは何だったのか? 端的には、空が覆い尽される恐怖だったと言えるのではないか。見上げれば、それがそこにいる恐怖。今はありえませんが、57年前までは我が国でも現実でした。もちろん日本だけではない、当事国のほとんどにとって現実だった。頭上が奪われ、支配され、降りかかってくる恐怖です。

 そんなゴジラのリアリティから今や解放されましたが、空からの恐怖が去るや、我々の意識は日常の恐怖へと向けられます。敵国への恐怖から、隣人への恐怖へと移り変わる。架空のモンスターが、『ジョーズ』のような現実に存在するクリーチャーに取って代わられたのです。

 新しい恐怖の定義が一度はっきりすると、この水から脱すれば解放されるサメの恐怖は、より我々の現実に対する恐怖へ歩み寄って来ます。陸地にあって、いや自分の居住区にあって、いや自分の部屋にあっても襲ってくるのではないかという恐怖にシフトした、それがエイリアンだったのだと思います。現実に存在するサメから、また架空の存在に戻りましたが、恐怖はより隣人への恐怖を反映したとも言える。追いかけてくる恐怖。それも、理由も無く追いかけられ、殺される恐怖。つまりは凶悪犯罪に巻き込まれることへの恐怖を反映しているのではないでしょうか。アメリカ社会は古くから異常犯罪の温床でしたが、殺伐とした殺人クリーチャーが量産された背景にはそういった社会不安もあったのではないかと思います。

 その後アメリカが生み出すモンスターは変遷を続けています。小型化の一途をたどり、『アウトブレイク』のウイルスなど、もはや小型化しきれないところまで至りました。その一方で怪物の器を捨て、人間を器として求めたのです。『羊達の沈黙』のレクター博士や『セブン』の犯人がそれです。

 こうやって現実の恐怖に怪獣を照らし合わせてみると、アメリカにはゴジラはありえないかったことに気づかされる。何故ならかの国の空(本土の空)が異邦人に支配されたことは、かつて一度も無かったからです。(ご存知、巨大UFOにより空が覆われる『インディペンデンス・デイ』を撮ったエメリッヒはドイツ人。このように仮定するなら、アメリカ人が絶対に思いつかないネタだったと考えられ、当時のアメリカにおける異常な盛り上がりに関する説明もつきます。)

 しかし昨年9月11日、その歴史にピリオドが打たれました。

 いろいろ考えさせられた事件ですが、今回の話題に絡めて言わせてもらうなら、リアリティーを失ったのはゴジラではない、我々だったということ。そして、そのリアリティを忘れたままでいられる保証はどこにもないということです。

 アメリカはこの先、どんな怪獣を生み出すのでしょうか?

(評価:★4)

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