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[コメント] 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007/日)

彼らと彼女たちの誤算。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







道を誤る者はどの時どこでどう誤るのだろうか。映画の中の彼らにその瞬間(そんなものがあればだが)がいつ訪れるのか、それを目撃したくて目が離せなかった。なぜ「彼ら」は道を間違ったのだろうか? 彼ら自身のイデオロギーがそもそも間違いだった、というよりもむしろ、彼らが彼ら自身望んでもいない方向へ向かってしまったのはなぜなのだろう、ということだ。

理念を掲げた集団が、その目的を果たすことにおいて、あるものは成功をおさめ、あるものは失敗する、という、その明暗をもたらした差とはなんだろう。例えば彼らと幕末の志士たちの違い、彼らとカルト教団の違いってなんだろう。以下作品の感想からちょっと逸脱するかもだが、この作品に登場する彼らと彼女たちの誤算について思ったことをとりあえず書いておきたい(<総括?)と思います。しかも長文。ご容赦ください…。

彼らの失敗への道程のポイントは、武闘の自己目的化、自意識過剰、反論の封殺、自己実現欲の混入、仲間の生々しい死にあったのではないかと思う(最初の4項目は、失敗する組織一般に共通のようにも思う)。

まず、最初に彼らが幹部や中心的指導者を失った組織の残党の寄せ集まりだったということがある。自発的に集まった集団から成立した組織ではなく、まず組織という入れ物の継承者だった。となれば最初にしたいと思うことは、組織の位置付けの確認だろう。「銃による殲滅を実行する武力闘争集団」という、本来は社会正義実現の一手段は、はなから組織の指標とされている。手段であれば状況に応じて変更されるし、手段はたえず疑われるものだ。これは、連合赤軍結成以来、浅間山荘に至るまで最後まで疑われることのない絶対的な指標だった。なぜかはわからないが、自己目的化というのはそういう状態であることだ。

また一般論として、集団とは、自発的に成立したものでも、組織を維持するためにメンバーの最大公正を保とうとする方向への運動を促進していく。大同小異のバランスのとりかたによっては、構成員の意志から乖離した組織独自の理論を持つ可能性もある。であれば、組織に必要なのは、組織への忠誠を構成員に問うことでなく、組織そのものが自己批判機能を持つことが必要ということになると思う。本来「自発」的に行われるべき自己批判や総括を他のメンバーに「強制」させることができたのは、森や永田のカリスマ性というよりも、個人から組織を向くのではなく、組織から個人へと向けられる「組織の名の下に」という逆向きのベクトルのお蔭だ。他人に「自己批判しろ」と言うことは、当然「何に対して」の「自己批判」なのかの、「何」が共有できている相手でないと会話が通じない。自己批判を他人に強要できるのは、同じ組織の一員だとか、共通の信条が前提で、なおかつそれが強固である必要がある。オタクはオタク同士で、更に同じ「系」であればこそ「おまえ自己批判しろ」って言えるのと同じだ。

他の意見も柔軟に取り入れられるような自己批判機能を上手く持てた組織はきっと更に拡大していけるのだろうが、上手く持てなかった場合でも、組織を分裂させていくことで健全性を保てるのだと思う。が、連合赤軍は、組織のありかたそのものを総括する思想はなく、分裂も認めなかった。認めなかったのは、リーダーの森や永田がはなから組織を恣意的に運営しようとしたからだろうか? そういうようには見えない。オウムだったらそうなのだろうが、オウムは階級社会(ステージの獲得)を目指すものであり、共産主義を目指す彼らのリーダーはリーダーとはいえ同士である。「分裂を認めず」はおおむねみなで選びとった道なのだと思う。そこはとても悲劇的だ。そこにはもはや自分たちしかいないのだという鼓舞も含まれた自負という名の過剰な自意識があったと思う。彼ら彼女らはまずとても真面目だったのだと思う。そして事実大半のメンバーは、知性の高さを自覚しているエリートだった。自分が間違えているはずなどあり得ない、とは、誰にでもある感情だが、彼らには崇高な理念と社会的ステータスという裏付けもあったのだから尚更自分たちを疑うことは困難だったろう。

また、分裂を全面否定することは、反論を封殺することに繋がる。組織の健常を保つうえで不可欠な分裂の否定で組織の頭脳と身体は硬直(マヒ)していく。武闘の自己目的化と自意識過剰と反論の封殺は、互いに連携しながら組織への批判を回避し、組織を保全しようとして、その実、組織を機能不全に陥れていったのだ。

また、彼ら彼女らは、論理を重視するということでは全員一致で承認していた集団だと思う(だから炬燵で睡魔と闘いながら勉強しているのだ)。森、永田に逆らえないと思うのは、森・永田を論破できないと思うからだ。しかし、銃による殲滅作戦はともかくも、自らを共産化させるというような思念への取り組みは、真面目な人ほど自己の欲望との葛藤を抱え、その自己矛盾を批判して離脱や破滅へ向かわせていく。「世のため人のため」といいながらも、その思想や行動の中にはいくらかの「自己実現」が透けて見えるものだと思う。個人主義が前提である世の中ならそれがふつうだろう(幕末の志士たちが思い描く大義は、個人というフィルターを通してはいなかったと思う)。その自己実現「欲」の範疇は客観的に査定されることはまずなく、ようは個々人で自分自身納得できればそれっきりの問題だ。ここには度し難いアンフェアがあると思うのだが、いまだにあまり取りざたされないことのように思う。これって、本心か欺瞞かはともかく「僕と永田さんが一緒になるということは、共産主義的観点からいって正しい」と言い切ってしまえるかどうか、というだけの問題ではないか。これには客観的な判定基準がない。おかしい。

それにしても森・永田が男女関係を結んだということを表す描写は、ぼんやりとうつぶせに横たわる女に、布団の上であぐらをかき背中を向けてタバコを吸う男、という、笑っちゃうくらい凡庸な構図(画づら)で、こういう陳腐な構図を選んだことには監督の明確な意図を感じられる。それはもちろん彼らの共産主義行為(笑)の通俗性を暴くことに他ならない。監督の怒りを感じさせる場面である。

そして決定的に見逃せないのは、現実の死が彼らに薬物のような高揚感をもたらしたのではないかということである。論理漬けのさなか、さっきまで一緒にいた仲間の屍体が神経を暴力的に刺激させさせていく。後にはひけないという覚悟。次は自分かも知れないという恐怖。それらは彼らの積み上げてきたいろいろな知見や識見さえ吹き飛ばすインパクトがあったのではないか。しかしこのことは、理念のために封印してきた人間性をついによびさますことになったのだろう。ここで組織が瓦解していくことはせめてもの救いかも知れない。

彼らは間違っていたが、いくつかの行動を除けば彼らを非難する気持ちにはなれない。なぜなら彼らのような志の発露こそ、社会という組織の自己批判機能だし、とかいうより、単純にその正義感に賛同する。もう少し早く生まれていれば、自分もこういう運動に参加した可能性が高い気がする。就職だから髪を切ったという裏切り者への反発心から、いろんなものに目をつぶって耳をふさぎ運動に埋没していったかも知れない。運動の渦中に身を置きながら、やらなければお前をやるぞという集団狂気の中で「それって違うんじゃない」と言える勇気があったろうか? そういうことを考えるととても恐ろしい。

森、永田という特異な二人のリーダーに煽動されながら望まざる道へ傾斜していくわけだから、 二人のリーダーの心の闇(森の「出戻り」や永田の「不妊」とか)を、他のメンバー・幹部などの目を通して描いていくような切り口のドラマも見てみたかった気もするが、内面のようなわからないことは極力描かないという実録形式をとることで、彼らが思考マヒに陥っていく「有態」自体が抽出されてよく描かれていたと思う。

最後に、山荘での「おれたちは勇気がなかった」というあの場面だが、その台詞を聞いた坂口ら4人が、一瞬現代の若者のような顔になるのが印象的だった。冷静さをとりもどした柔和な顔。そこだけ「実録」でなく「物語」なのだ。ここの表情を見事にとらえた監督はさすが!と思う。

思えば彼らを演じた役者はみな私よりも10歳は年下だ。ふだんはそういう表情をしてるのだろう。私よりも彼らから一世代遠いそんな役者たちは、憑かれたような70年代の彼ら彼女らの表情をたやすく獲得していたように思う。彼らの俳優としての技術の高さというには、あまりにも皆が皆なりきっていたように思う。

とすれば、もしかしたら熱狂を装うということは、意外と簡単なのかも知れない。狂気に陥るのではなく、陥っているふりをする。それによって超人になろうとする(共産化とか)。狂気を模倣するうちにそれが本心だかなんだかわからなくなる。演技しているうちに本当に感じてきちゃった、っていうのに近いのかも(<違うか)。狂気の多くは”セルフ”マインドコントロールから始まるのだ。だとすればめっちゃ怖い。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)イライザー7[*] セント[*] ぽんしゅう[*]

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