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[コメント] エイリアン2(1986/米)

エイリアンとの闘いを通して、人間性という外皮を破って内から現れる、生物としての本能。我々の内なるエイリアン。複数形の‘Aliens’には、ヒト自身も含み込まれているのではないかとさえ感じさせられる。(終盤について→)
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「母」対「母」、「種」対「種」、この対決の構図が極まるのが、終盤のマザーエイリアンの産卵シーン。この場面の不気味さは、ここに至るまでに繰り返されてきた、エイリアンの群れ、卵、幼生の不気味さを凝縮し、またそれらの根源を眼前に突きつけている事に由来するのだが、と同時に、それまではヒトとは全く異質な存在、純然たる暴力の化身でしかなかったエイリアンが、子を産み、育て、守る「生物」としてヒトと同列に立つという所に、認識の変更を強いるような、新鮮な形での不気味さが立ち現れる。リブリーに卵を焼き払われて絶叫するマザーエイリアンの声は、それが紛れもない「母の嘆き」として聞こえるからこそ、恐ろしい。それまでは、ただ恐ろしいだけの存在であったエイリアンの本質は、ヒトと同じ生存本能にあった訳だ。

マザーエイリアンは、飛び立った宇宙船に乗り込んで、復讐戦を仕掛けてくるが、それと再び対決するリプリーが、モビルスーツのような機械を操縦して肉弾戦を演じるのは、その巨体や、非人間的な体という点で、マザーエイリアンと同等の立場、同じ土俵に立った事の表れだ。だからこそ、あの異形のエイリアンに「Bitch!」と、人間に投げかけるような罵りの言葉を浴びせかける台詞が、純然たる「女の闘い」の宣言として響くのだ。

そうした、感情や痛み、生存本能とは無縁なアンドロイドのビショップが、闘いを終えたリプリーにかける言葉「やるね、人間にしちゃ」は、人間としての母性本能が、生物としての母性本能に拮抗し得た事への称賛だ。リプリーの乗った作業用ロボットも、このビショップも、共にヒトの知能の産物。リプリーがマザーエイリアンを追放できたのは、宇宙船の操作を理解していたからで、ヒトが勝ったのは、この知能という糊代があったが為だ。単なる生物としては、ヒトもエイリアンも、本質的な優劣は無いように見える。だからこそ、と言うべきか、マザーエイリアンはその身を破壊されも焼き尽されもせず、ただヒトの生存する空間から、その外へ追放される。

このようなテーマ的な視点から見れば、この‘2’の真の続編は、‘3’ではなく‘4’だろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)DSCH[*] ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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