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[コメント] ランボー 最後の戦場(2008/米=独)

敵方の残虐な暴力は、それを打ち破る暴力の呵責なさを正当化する。血飛沫と肉片の飛び散る暴力をいつしか「享受」させられた後の虚脱感。(第一作目『ランボー』にも言及→)
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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船で私たちを送って、と執拗に頼むサラを、口数少ないランボーは「Go home(うちに帰れ)」と突き放す。だが最後にゴー・ホームしたのは、他ならぬランボー自身。このラスト・シーンは、既に他のコメンテーターの方が指摘されている通り、シリーズ第一作目の『ランボー』の、冒頭の場面への回帰だ。

『ランボー』は、ベトナム帰還兵であるランボーが、町の日常的な秩序(その象徴としての警官)とのちょっとした齟齬から始まって、次第に後戻りのきかない闘いに突入していく話だったと記憶しているが、長い年月を経ての本作で、なぜ最後にランボーは帰郷したのか。それは彼が、鎚で熱い鉄を打ちながら、「神が与えた役割」としての戦士への覚醒を得たからだ。「追い詰められるほど、躊躇なく殺す事ができる」。もはや彼は、警官に追い詰められて牙を剥く無惨な野犬ではなく、純粋な本能に従って敵を血祭りに上げる狼となった。殺す者としての自身への後ろめたさから解放された彼は、もはや帰郷への躊躇いに囚われる事はない。

ラストシーンの、ポストから家までの長い道の先に、ジョン・ランボーの父が生きて待っているかは分からない。だが、凄絶な命の遣り取りを潜り抜けたランボーは、人間はいつか死ぬ、という事のリアルに改めて気づいたのかも知れない。

劇中の、キリスト教的な平和主義を主張する慈善団体は、第一作での、ベトナム帰還兵に向けられた冷たい目線の反復だろう。この、食糧や薬品という「命」を届けに来た彼らの、非暴力、非武装という事の無力さ。容赦なく虐殺される村人たちと、神の沈黙という、善悪の彼岸。ランボーが最終的に、自らの宿命としての暴力を受け入れる決意は、そうした超越的な悟りによるものなのであり、だからこそ彼は、マシンガンという、超人間的な破壊力と一体化する事になる。そこには、『ワイルドパンチ』のマシンガンのような、華々しい空虚の祝祭感もない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)Orpheus DSCH[*] 林田乃丞[*] けにろん[*]

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