[コメント] アフタースクール(2008/日)
娯楽映画とは、観客にある種のカタルシスやリフレッシュを促すことを目的に作られた映画だ。ひらたく言えば「泣けたり、笑えたりする」映画であり、また「興奮したり、癒されたりする」映画だ。一部の例外を除いて映画は、興行的に成功することを宿命づけられている。より多くの観客に見られることが前提となるとき、映画が媒体としての「映画」の中に、より大衆的な「娯楽」を取り込もうとする方向へと向かうのは必然であろう。もちろん、何が娯楽であるかは人それぞれによって様々である。だからこそ、大衆の最大公約数的物語やヒーローを追い求め続けることが、映画の歴史そのものであったといっても過言ではない。
ところが内田けんじという映画作家は、それとはまったく逆の道を進もうとしているように思える。前作『運命じゃない人』のコメントで私は「こういう映画こそ一級の娯楽と呼ぶに相応しい。」と書いた。このときには、はっきりとは分からなかったのだが本作を観て、内田の目指す「娯楽」がなんであるかが垣間見えたような気がする。内田は「映画」の中に「娯楽」取り込もうなどとは微塵も考えておらず、媒体としての「映画」がもっている特性そのもののなかに「娯楽」性を見い出そうとするのだ。つまり、それは前作では時間軸を交錯せせるタイムシフトであり、本作の何を見せるかという特権としての選択権を駆使したミス・リードのことだ。
この姿勢によって生まれる映画は、映画媒体そのものの娯楽性を抽出するという、いわば「純粋娯楽映画」とでもいうべきものだ。そんな作り手や映画があっただろうかと、ずいぶん考えてみたがどうにも思い当たらない。しいていえば、初期のチャールズ・チャップリンやバスター・キートンが、スピードや被写体としての身体を駆使して娯楽性を追求していたという点で、当時はそうだったのかもしれない。映画の歴史が100年を超え、テレビ局や出版社の原作ものが溢れる映画製作バブルの日本映画界にあって、中島哲也や山下敦弘、そして井口奈己などオリジナリティ溢れる原作の調理手の登場が、私にはなんとも心強いのだが、なんと内田が試みているのは映画の歴史を逆走するという、彼らとはまったく異なるフィールドでのとんでもない実験なのだ。
で、なぜ3点なのかというと「純粋」ではなく「通常」娯楽映画に毒されきっている私には、やはりいわゆる「カタルシス」が足りなかったことと、佐々木蔵之介演じる愛すべきダメ男がかなり冷たく扱われていたからなのです。だから内田けんじには、まったく責任はございません。
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