[コメント] ダークナイト(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ヒース・レジャーはがんばったほうだ。
確かにアカデミー助演男優賞をとれるほどの気迫がある。
だが、ヒース・レジャーには残念だがこのジョーカーに俺はコミックやカートゥンを通して感じた悪の気力にはまだまだ及んでいない。
個人的なことを言えばやはり最高のジョーカーはマーク・ハミルと彼の吹き替えを担当した今は亡き青野武だろう。
これについてはいずれ語るが・・・さて、ダークナイトでジョーカーを知った皆さん。
これでジョーカーをわかったとおもったら大違いです。
所詮、にわかアメコミオタクである私の分際ですが、少し説明させていただきたい。
そもそもジョーカーは戦前1940年代初期に連載されたコミックである「Batman vs The Joker」で産まれたキャラクターである。
当時から最先端メディアであったラジオを使った市民を巻き込んだ劇場型犯罪を行うジョーカーの初登場回は今読んでも非常に不気味であり、このジョーカーのストーリーこそあらゆるジョーカーの話の中で最も優れたものだとおもっている。
またジョーカーという存在は話によってコロコロ立ち居地が変わる。
そもそもオリジン(誕生秘話・過去設定)が話によってコロコロ変わるぐらいだ。
バートン版やアニメを意識したギャングになれば、キリングジョークのコメディアンにもなる。
ジョーカーは毎日毎日人格を作り変える事でその狂気を尖らせているのだ。
ある時ユーモラスな三枚目にもなれば、バットマンへの同性愛の混じった気持ち悪いホモにもなるし、ハイテンションでギャグで大量虐殺を行うような残忍なサイコパスにもなる、そしてまたこの映画にでてくるような狂気に独自の美学を持った思想犯にもなる。
あのスーパーマンに自分を殺させてしまおうとしたり、二代目ロビンをその場の気分でぶち殺したりとやりたい放題したい放題そこらじゅうには死体ありまくりてなもんだ。
いわば、この映画のジョーカーはその「思想犯」的なジョーカーの一面をクローズアップして映画化したのだ。
だからこそ、究極のジョーカーというほどでもないですぜ。
だが、ヒース・レジャーは全力を出した。
彼に免じて☆四つは手堅いですなぁ。
さて、映画本編の話題に戻りましょう。
純粋にいうと、ラストはいただけないですね。
あんな考え、バットマンはしませんよ。
むしろ否定してかかるでしょう。
クリスチャン・ベールのバットマンというかクリストファー・ノーランのバットマンははっきりいってマヌケである。
というか常に落ち着きがない。
声からして焦りしか感じられない。
常に女の事しか考えておらず、バットマンという存在に執着をしていないんです。
これはダメですね、無能な上に女の子としか頭にない童貞ときたらヒーローとして何の憧れも抱きません。
マイケル・キートンの演じたバットマンの方が1000倍ダークナイトらしいです。
常に落ち着き、最悪の状況を乗り越える策を考えつつも、悩んでトラウマがある。
素晴らしいバットマンでしたなぁアレは。
それに比べてこのバットマンの体たらくよ、マヌケさよ。
ひたすらジョーカーの引き立て役でしかない。
まぁ、無能でマヌケで女の事しか考えてない奴でもいいんですよ。
それなりに市民を信じ、自分の信念に従えばね。それがアメコミヒーローです。
ラストのデント殺害の罪を被る決断、あれは恐らくダメでしょう。
所詮優しいウソじゃないですか、それが一番ダメですからね。
バットマンの存在そのものを否定してるといってもいい、バットマンはもっといえばああいうような「優しいウソ」が大嫌いな存在であるはず。
原作ではジャスティスリーグというヒーローチームに所属しておりスーパーマンやワンダーウーマンなんかと組んで宇宙からの侵略者から市民を守ったり、貧困や人種差別のような現実的な社会問題について悩んでたりしています。
そこでのバットマンの役割は「現実主義」つまり「自警団」なわけです。
超能力者や宇宙人、しいては神様なんてのがいるなかでバットマンは現実的な正義=暴力装置としての正義を求め模索しているのです。
さて、そんなジャスティスリーグの中でバットマンたちはある問題に直面します。
アイデンティティ・クライシスという話が原作であるのですがバットマンは他のヒーロー仲間が家族をレイプしたドクター・ライトという狂人に対する制裁としてロボトミー手術を行う現場に遭遇してしまいます。
バットマンは当然そんなのは許しません。
なぜならバットマンにとって例えそれが有情であっても現実ではないからです。
もっといえばバットマンにとってあらゆる人権蹂躙を許す事はできないんです。
例え、それが仲間であったとしても。
もっとわかりやすい例えをすればBatman: Absolutionという話があるのですが。
その話でバットマンは爆破テロをしでかした女性がインドで僧侶をしていると知ったバットマンは彼女をわざわざインドまで追いかけて捕らえてしまうほど現実的な正義=事実の究明に執着しているわけです。
この映画でのバットマンは市民に偽りの希望を見させることで目を背けさせているんです。
恐らくこの現場にもしも、原作のバットマンがいれば「デントは犯罪を犯した、それは変わらない。だが市民も理解してくれるだろう。私はゴッサムシティを信じている。」と独白しながらデントがトゥーフェイスになった事実を知り困惑する市民を闇夜から見守り終わるでしょう。
冷酷だけどそれがバットマンなんです。
そういう風に終われば僕も納得しますよ。
でも、これこのオチだと納得はできませんよ。
まぁ、これでいいでしょう。
これでどうオチをつけるのか見守りましょう・・・・。
というのが2008年の僕の心境でした。 で、2012年ですが・・・・やっぱりオチつけれなかったかノーランさんよ。
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