[コメント] コッポラの胡蝶の夢(2007/米=独=伊=仏=ルーマニア)
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ドミニクが名を偽って外国へ逃れるシークェンスは、急にスパイ映画的な様相を見せる唐突さが面白い。緊迫した世界情勢を伝える新聞紙面カットの挿入や、外国語を流暢に操ることで身を隠そうとするドミニクの行動により、言語=世界という印象を観客に植えつけようとしたのだろう。
ドミニクが或る教授から、漢字を覚えるのに必要なものとして教えられる「写真的記憶力」。その一方、アルバムの写真によって、ラウラとの思い出を脳裏に甦らせるドミニク。終盤で、ラウラと別れた彼がホテルの部屋で手にしていたメモ帳も、いつの間にかアルバムに変わっている。映像対言語。劇中の「若返り」と「老化」は、時間というものを視覚的・映像的に表現する要素だ。
「若返り」と「老化」が、一個人の一生というスパンでの時間を表わすのに対し、言語は、人類の意識の起源にまで遡行する、長大なスパンを有する。ドミニクは、「ルピニ」としての前世を甦らせたヴェロニカの話す言葉を聞きながら、エジプトの象形文字を紙面に書きつける。だが彼女の言葉は、時を遡行するにつれて、文字化できず、言葉として理解もできない音響へと接近していく。それと引き換えにヴェロニカは老化する。音声は、視覚的世界を吸収する吸血鬼だ。
ドミニクは、若返って間もない場面で、医師から録音機を渡され、「紙にメモを書ききれなくなったら、声を録音すればいい」と勧められる。結局、身分を隠して暮らすようになるドミニクは、声だけに真の身体性を付与するようになる。完成できなかったために「私の一生は無だ」と漏らしていた一冊の本の代わりに、録音テープに全てを託し、それが無ければ「私の一生は無だ」と再び口にする、音声的ミイラとしてのドミニク。
全体的に、この種のテイストの作品として全篇をもたせるには、まだどこか画面に厳格さが欠けている嫌いがある。が、殆ど骨組みだけになりながらも燃え続ける傘や、車内のドミニクを正面から捉えつつ上下逆転したカットなど、瞬間的に印象に残るカットも幾つかある。時間的倒錯を扱った作品に相応しく、横倒しや上下逆転にされた画面によって、空間的倒錯を企てているのも愉しい。
オープニングタイトルでの登場以外、物語的には何の前置きもなく登場する赤い薔薇が、理由も無いままに一つの決定的な象徴として機能し得ている点に感心させられる。椅子に座るドミニクの手に、突然パッと薔薇が現れる演出は、画的には別に美しくもないのだが、出現の唐突さ、その鮮烈な赤さだけでその存在を焼きつける無償さが美しい。単なる視覚的な美ではない、時間的な美しさ。
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