[コメント] イントゥ・ザ・ワイルド(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
大筋でロードムービーの枠組みを取りつつ、圧倒的な開放感に浸ることができないのは、主人公の旅立ちが失踪でスタートし、その死で終わるように規定されているからだ。適宜フラッシュバックで挿入される、残された家族の描写と、現在進行形のアラスカの物語が、映画の冒頭から終幕までダークな通奏低音を奏でている。
この映画は、『モーターサイクル・ダイアリーズ』のような通過儀礼ではなく、『チョコレート』『イン・ザ・ベッドルーム』といった作品に見られるような「息子の物語」なのである。途上で行きかう人々との交流に端的に現れているように、主人公は常に「息子」のポジションにあり、成人として自発的に家庭を築くという発想がない。それは終盤でほのかに香る異性との触れ合いが、恋人ではなく擬似的な家族(妹)として扱われていることからも明らかだ。
この未熟さ、崩壊した家族と、つかの間の擬似家族、無謀なまでの自然志向と、悟っているようでいて実はきわめてナイーブな社会性が最後まで貫徹され映画が終わるという図式は、911以降のアメリカを内省している。いささかリリカルに過ぎるように見える前半から、現実に生を生きている人々の、心からの言葉が漏れ聞こえてくる後半への転換も成功していると思う。市井の生活者のリアリスティックな告白というのも911以降を示すキーワードだ。
ただ、惜しむらくは主人公にエミール・ハーシュを起用したキャスティングだ。思索型と行動型を併せ持ち、どちらかといえば中性的で謙虚、裕福な南部の知識層に生まれながら愛情に乏しい青年をまっとうに演じているが、これがあまりにこの映画のテーマとぴったり嵌っている故に、長尺の物語を一人で背負って立つには映画的な魅力に欠けているのだ。
あるいはこれを「アメリカ映画」的な、と限定してもいい。イーストウッドやアルドリッチ(貨車の無銭乗車は『北国の帝王』だ!)を引用しつつ、西部劇への憧憬も滲ませながら、この主人公の人物造形はイギリス映画のように小さくまとまってしまっている。
ケン・ローチやマイク・リーの映画の登場人物に見られる矮小さは、イギリス映画の島国的情緒をかもし出していて、それはそれでひとつの落ち着き所として納得できる。一方、ショーン・ペンは当然アメリカの映画作家であるのに、それに見合った器の大きさがエミール・ハーシュにはないのだ。ディカプリオのようなセクシーさ、リバー・フェニックスのような輝き、きらめき、そのようなオーラこそが、アメリカ映画の主人公には必要だと思う。有無を言わさぬ911以降のアメリカ映画である『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公が、それでもダニエル・デイ=ルイスでなければならなかったように。
この映画に注力された思いの大きさと、ストーリーテラーとしてのショーン・ペンの進歩(両親の教会での礼拝シーンと主人公のヘラジカの解体をカットバックする手腕は原罪意識をシンクロさせていて見事だった)、そこを踏まえて将来に期待する意味で辛口の採点にしました。
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