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[コメント] チェ 39歳 別れの手紙(2008/米=仏=スペイン)

革命という言葉の華々しさとはまるで無縁の、鬱な行軍。だが、この徹底的に無感動にも見える、砂を噛むような虚しさにこそ、むしろ胸が打たれる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







軍隊としての自覚に乏しい兵士たち。ゲリラに非協力的な農民たち。前篇でゲバラが繰り返していた「文字を学べ」という言葉は、即ち「認識せよ」ということ。農民たちにとって自らの窮状は、「不正」や「抑圧」として明確に認識されておらず、ゲバラの正義感も誠実さも空回りしてしまう。或る同志は彼について、「豊かな暮らしができる身分なのに敢えて来てくれた」人として仲間に語り、ゲバラを捕らえた将校は、ゲバラに対し「悔しいか?カストロは優雅な晩餐を行なってるんだ」と嘲弄する。それぞれ正反対の角度から、ゲバラが「敢えて」ボリビアにやって来たことを指摘している。つまりゲバラにとってボリビアの窮状は、「不正」と「抑圧」として認識されてはいても、彼自身の「生活」ではないのだ。ゲバラは「喘息の薬を持って来忘れたのは私の失態だ」と言うが、持って来忘れた物は他にもあったのかも知れない。

道中、或る村でゲバラが、少年の目のケガを治療してやったとき、その母親が大感激して感謝の意を表す。これは恐らく、劇中唯一、農民からゲバラが心底感謝された場面だ。この女はゲバラに言う、「あなたに神のご加護がありますように」。だが、最後に捕らえられたゲバラは、見張りの兵士から「あなたは神を信じる?」と訊かれて、こう答える。「私は人間を信じる」。この、人間を信じる、という信念は、自分の言葉が他人に届く可能性への信頼に基づくものだろう。それは言い換えれば、人々が自発的な行動をとることへの信頼でもある。そうでなければ、軍の指揮官としてのゲバラの言葉は、物理的な暴力の支配者としてのみ効力を発揮することになってしまうだろう。実際、ゲリラのことを政府側に知らせた現地の住民は、ゲバラの命により、報復として、経営する店から食料が奪われてしまう。彼らは嘆いてこう言う、「子供たちの分なの」。

前篇では、メディアの取材や、国連での演説に於いて、多くの言葉を費やしていたゲバラ。この後篇を観ていると、前篇での言葉の人ゲバラとしての振る舞いの数々が、モノクロ映像であったにも関わらず、随分と華々しく思えてくる。このコントラストがあるからこそ、後篇での、言葉の力を発動しえずに終わるゲバラの悲壮感が際立つ。更に彼は、偽名の「ラモン」として曲がりなりにも蓄積してきたものを、「フェルナンド」への再改名という形で放棄するなど、その名の力すら奪われて見える。皮肉にも、彼がゲバラであると密かに知らされた若者が、彼ともう一度握手しようとする場面や、敵方が、ゲバラが入国したのかどうなのか執拗に気にする様子などから、ゲバラの名の威力がいかほどのものかが窺い知れるのだ。

ゲバラが身分を偽って、密かな出国を行なう場面での彼の変装が、老いた姿であったのも、妙に印象に残る。まるで彼が、出発前から既に老いて疲弊していたかに思えてしまうのだ。老い。即ち、過去の存在。ゲバラという名には栄光が与えられていようとも、彼が向かい合う現実と彼との間には、埋め難い齟齬がある。「外国人」であるというズレは前篇のキューバに於いても既に内包されていたものであるが、ラテンアメリカ人という普遍性へと昇華されていたかに思えたその差異は、ボリビアに於いては亀裂をもたらす。その意味で、このボリビア篇は、キューバ篇では肯定的な形をとったゲバラのポテンシャリティが、全く対照的な形で反復されたのだ。

(評価:★4)

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