[コメント] レイチェルの結婚(2008/米)
厭らしさの見本のような撮り方だ。無遠慮に被写体に寄るドキュメンタルな手持ち。虫酸の走る素早いズーム。画質の差を露骨に設けたカメラの切り替え。それらが息詰まる演技空間の形成に与かっていることも否定できず悔しいが、しかし私の胸に残るのはどうしてカサヴェテスだけがあれほど偉大なのかという謎ばかりだ。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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『招かれざる客』など存在しなかったかのように、あるいは覚えている者など誰もいない遥か遠くの昔話であるかのように、ここに人種問題はいっさい顔を覗かせない。やはりアメリカ合衆国と雖も少しずつ前に進んでいるのか。それはそれでとても結構で喜ばしいことだが、この映画は「これからの家族」ではなく「これまでの家族」に問題があるような家族を描く。過去はいつまでも追いかけてくる。そして、人は他者を完全に理解することなどできない。アン・ハサウェイもローズマリー・デウィットも「あんたに私の気持ちが分かるか」と云う。しかし、分かるわけがないのだ。映画はそのうんざりするほどに厳然たる事実を延々と積み重ねる。彼女たちはその事実に気づいていない。と云うよりも、気づかないふりをしている。気づかないふりをやめるためには母娘の殴り合いや自動車事故や結婚式がもたらす祝祭の時空間が要請され、「決して分かりあえない」という実存的孤独を承認したうえではじめて「妹」や「姉」と呼ばれていたところの他者を「家族」として受け容れる。だから、この映画が迎える結末がいささかでも前向きなものであったとして、それは多分に苦みを伴った前向きさだ。別の側面から云えば、なんとかこの家族を繋ぎ留めているのは、決定的に家族がバラバラになった要因と推測されるところの不在の弟イーサンだ。それを皮肉と呼ぶのかは知らないが、人が生きていくということは案外そんなものなのかもしれない。
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