[コメント] GOEMON(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
長々しい文章です。さらに『グラントリノ』のラストへのネタバレも含みます。 『GOEMON』にある苦々しい感情をお持ちの方に読んでいただきたいです。
決して紀里谷和明監督個人が嫌いではないし、彼を貶めるつもりで書くわけでないが、映画を愛する人間として書きたい。これは映画ではない。僕らの良く知っている映画ではない。 勿論、色んな映画があっていいのだが、僕はこれを映画と呼びたくない。
まず、映画には重力がある。それを監督はなおざりにしている。それが致命的な、そして根本的な欠陥になっているのだ。
それは実際に地球にある重力(gravity)でもあるが、同時に物語の重力であり、それが主人公に枷としてからむので受苦(パッション)及び共感が出て来るという、感情の重力でもある。 そうした重力をふまえずにひたすらジャンプさせ、夥しい敵を苦も無くなぎ倒して行くということでは五右衛門に対する我々の感情は引き寄せられるはずもない。 他にもいくつか例があり、冒頭五右衛門が屋根を行くところ、セリフは忘れたが、兵に負われ、しつこいんだよとかなんとか走りながら言うのだが、このセリフの発声がなっていない。当然デジタルダブルだからアフレコでセリフ録っているのだろうが、息づかいがまったくないので映像とマッチしていない。
重力というのは無視できない現実の法則ということでもあり、監督本人が演じる明智光秀が秀吉に殺される場面のあっけなさ、一応戦国の武将である明智光秀がそんな簡単な殺され方でいいのだろうか?もう一工夫ほしいだろう。 二人には側近の武将がいるだろうし、また二人だけになる場所にいくならそういう展開にすべきだろうし、殺された明智側の武将たちはその後どうしたの?みたいな、つっこみ所満載の説得力のない御都合主義の極まった殺され方の描写。 側近といえば、家康には何故か服部半蔵しか家臣がいないのだ。その他はエキストラの兵士か、CGの烏合の衆だけというのもあり得ない。あり得ないというのは現実にはなかったという意味と、それでは客である僕らは納得しないよという意味の両方だ。想像力でどんな内容にしてもいいとは思うが、これでは想像力が貧困すぎないか。
現実無視は他にもある。鶴田真由演じる貧民窟の母親がピンクのリップを塗っていた。クローズアップではっきり分かった。この瞬間僕の気持ちは萎えた。完全に萎えた。それはないでしょう。鶴田真由である必要もないじゃん。ちゃんとそう見える病気がちで死にそうな、メイクで汚い衣裳でできる女優にすればいいじゃないか!
才蔵が釜ゆでにされる場面では、才蔵の演説に対して民衆が共感し石を秀吉に投げつける。才蔵の演説の内容については触れないが、石を投げたら兵隊たちが民衆に向かってくるだろう!そうして感情の高ぶった民衆と兵隊たちとの小競り合いがあり、兵隊がきっとその民衆に槍を向け、殺すだろう。そうした描写があることによって、為政者の横暴と民衆の苦しみという図式は繰り返され、だからこそ才蔵の演説はリアリティーを持ち、生きるのではないか?そしてさらに現実無視の決定版的描写は、その事件が終わった後、確か同ポジで時間経過を現したカットで、その広場が「石畳」だったことだ。そしてそこには石ころもなく、石畳を割った跡もない。民衆の投げた石はどこからきたの?それは聞くも野暮なの?
カットを異様に細かくするというのはこの映画だけの話ではないが、それも重力に関わることかもしれない。視線の重力。 僕らは映画を観る。観ることによって感情が想起されるのであり、チャカチャカして何が起きているのか分からない編集では僕らの心は映画に引き寄せられて行かないよ。ワンショットの力というものを信じていないのか知らないのか。絶えずカメラは動き回り、不必要に対象に寄って行く。ショットの力、そのショットと次のショットをつなげることによる、モンタージュ理論。そんなとこは前世紀の遺物と考えているのか?観客があるショットを認識するのにどれくらい時間を要するのか、そして認識の次に感情を換気されるのにどれくらいかかるのか。その観客の目を、心を計算して往年の巨匠は芝居を見せていたのである。観客の目をということを紀里谷氏はどれくらい考えているだろうか。
感情の重力、力学無視という例で言うと、五右衛門が少年に強くなれと言っておいて、いざ少年が敵の玉山鉄二演じる役人を殺すと、五右衛門は少年のむなぐらを掴み、少年の母親はそんな敵討ちなど望んでいないと怒鳴るのだが、その怒りには五右衛門の葛藤があるとみることができるのでいいのだが、少年は何も言い返さない。言えよ少年!あんたが教えてくれたじゃないか、とか、あんただってそう生きてきたんだろう、とか、じゃあそのまま泣き寝入りするのか、とか。そのような激しいリアクションが五右衛門の葛藤も浮き彫りにするし、さらにその後の行動に影響を与える。それがドラマツルギーじゃないのか?
ここで唐突に『グラントリノ』が出て来るのだが、イーストウッドが訴えたかったことと紀里谷和明が訴えたいことは根底では共通するのかもしれない。だが、そのための現実認識と表出の仕方には天と地の開きがある。 この場合天が紀里谷で地がイーストウッドと言っていいかもしれない。イーストウッドは地上で、寄る年波や息子たちの冷たさ、否応なく迫って来る時代、アメリカという社会に揉まれながら、悶えながら最後のあの行動をとった。それは僕の心を打った。イーストウッド演じた男は誰の目にも好感の持てる男ではない。むしろ嫌われるタイプだ。その彼が葛藤の末とった行動だから驚きだし、感動する。そこには確実に重力との格闘の証があるのだ。それは具体的にイーストウッドが撃たれて倒れるカットに、あの大きな男が倒れるハイスピードのカットに物凄い重みが感じられたことでもある。そうした身体観が感じられる演出は紀里谷監督には残念ながら少ない。それは重力ということを考慮に入れず、自分のイメージだけをただ現実の法則や規則や常識をただ無視して描くからだと思う。よく往年の巨匠は言った。一つの大きな嘘を描くために、できるだけ他はリアリティーを追求する、というようなことを。それが映画だと思う。ただ自分のイマジネーションだけを綴る態度は幼稚だといっていい。彼は貧乏したことないだろう。女にふられ心が千々に乱れたことがあるだろうか。傲慢な先輩と一緒に仕事して、「違うんだよ若造。そうじゃないよ。こうやるんだよ」とか嫌みなやり方で教えを受けたこともないだろう。そのことは表現者にとってはきっと不幸なことだった。
彼の訴えたいことは分かるし、僕もそう思うけども、その表現の方法は幼い。登場人物が精神年齢において幼い設定でもいいのだが、作家自身が幼くてはどうしようもないではないか。この作品には物凄い労力がかかっていると思うし、関わったスタッフは多数にのぼるだろう。だからこそ、こうした大掛かりな作りで幼稚な作品を作ったことは責任を追及されるべきだ。
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