[コメント] ディア・ドクター(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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西川監督の場合、先に書きたいテーマがあってそこから物語を作っていくというよりも、面白い筋の物語を書いていくうちに、じゃあこの物語をどういう方向へ落していくか、っていうところに来て、監督の中にある普遍的な問題意識に着地してしまうという、そんな気がする。だから映画はそれほど主張がうるさいわけではなく物語として面白くできている。だけれども最後にちょっと観念論になっちゃうところがある。そんなふうに思う。
監督の普遍的(多分)主題である「罪の意識」は、キリスト教の概念がもとになっていると思う(確かにカソリック系の学生だったようだ)。「ゆれる」は聖書の「カインとアベル」のことだと思う、とその「ゆれる」のReviewに書いたのだが、本作をみて思い浮かんだのは、やはり聖書の一節「汝らのうち罪なき者まず石擲(なげう)て」だ。「罪人に石を投げつけて罰を与えてもいいか」という問いに対し、イエスが返した言葉である。要するに伊野という偽医者をあなた(社会)は裁けますか?ということだ。伊野が逃亡し、彼の正体がわかった後の村人や相馬を描写するにおいて、彼らが「あの先生はいい人だった」と口々にするのではなく、彼ら(つまり映画を観ているわれわれ)ははたして伊野に石を投げようとするのかどうかを描くべきだ、というふうに監督が考えたのだと思う。
彼らもしくはわれわれが、伊野に石を投げられない「罪ある人」である理由とは、この場合自明のとおり、無医村という社会状況を生み出していることへの罪だ。
私が本作で監督のキリスト教的な考えを強く感じるのは、何も聖書のエピソードをとりあげたからということではなく、罪というものに対する監督のそうしたとらえようだ。『ゆれる』では、罪というものは「何を犯したことを問われるべきなのか」を強く主張していたと思うのだが、本作では「罪は誰かが引き受けなくてはならないのではないか」を問うているのだと思う。その「罪を引き受ける」という感覚がしごくキリスト教的だと思うのは、イエスキリストとは人間の「あらゆる罪」を引き受けるために現われた神だからだ。
神なき今の世の中で、神に変わって罪を引き受ける人がいるのだろうか? 発想の順番はよくわからないのだが、監督は、悪人と呼ばれている人というのが、もともと存在している何らかの罪を引き受けてしまった人なのではないだろうか、というふうに考えたのだと思うのだ。
罪は誰かが引き受けなければいけない。悪人とはそれをたまたま引き受けてしまったものなのではないだろうか。社会の制度の矛盾があって、そこから社会悪という罪が生みだされ、世の中のいろんなところに穴をあけている。たまたまそのうちのひとつどこかに空いた穴にスポっとはまってしまったのが伊野のような男だ、というふうに。偽医者の伊野は村人から神様と呼ばれ、キリストも偽預言者と呼ばれていたではないか、と。
松重豊扮する刑事の台詞の「村のみんながあの人を先生に仕立てあげたんじゃないか」という、刑事の感想にしては大仰な物言いは、伊野にキリストをだぶらせたい監督がつい描かせたしまったように思う。(こういうところがちょっと監督の作品の観念論的なところのように思うのだけど…。)
監督は、鶴瓶演じる伊野という男を、医師になりたかったのになれず、医療器具のセールスマンになったと設定した。父のように医師になれず、かといってまったく別の道を歩んだのではなく、医療の周辺で仕事をしているということは、彼がいろいろなものを呑みこんで生きていて、彼の心から誇りを失わせていたハズだ。「ペンライトを盗んだんはボクや」という電話。あの年齢でまだ親には「ボク」と言ってしまうのは、いまだ強い親子の支配関係を思わせ、親と訣別できず、施しを受けながら、なおも父への憧れがあったということがわかる。そのうえで、彼は医者のふりをする行為を選ぶのだ。彼はそれまでの人生でも、親の期待に応えられないことへの罪の意識(主に親への)を抱えていただろうが、ここで決定的に卑屈な行為を行い深い罪の意識(自分を誤魔化す)を抱えることになる。幼児のように柔和で愛嬌のある顔と丸眼鏡の下に、怨嗟と鬱屈をうかがわせる白目がギョロりとのぞくという、監督は、鶴瓶の面相そのものを最大限に活用している。
健康診断程度であればコスプレでもこなせる。手軽に自己満足が得られる。そう思ってたまたまやってきた無医村、そこが社会に空いた穴だった。罪人はより大きな社会の罪の存在を知る。そして男はいつのまにかその罪を引き受けていたのだ。罪人たる彼は、時折良心にかえっては、「もうこんなことはやめよう」と何度も思っていたのだと思う(気胸の応急処置をした時も転送先の病院から逃げ出す寸前だった)。「騙そうとする」ことが、やがて自分の保身のためだけではなくなってきても、罪の意識(自分が人の命を弄んでいるのではないかという怖れ)を心の闇の中にひそかに抱えていたのだと思う。だからいつかは罰がくだると思っていたと思う。
かれはかづ子の末期ガンと、娘の律子が次にこの村に来るのは1年後だ、というのを聞いて、とうとう本当にそれが来たと思った。彼はバイクに乗ってどこまでも逃げていく。彼の姿が一層小さく見えるのは、彼が神様の座を降りて人間に戻ったからだろう。「それでいいんだ」と逃げる伊野の姿を見て思った。人は神様になどなれないのだ。
そう終わるのかと思いきや最後に彼はかづ子の死を引き受けるためだけにまた戻ってくる。大病院よりも娘の律子よりも、かづ子の死を引き受けることができるのは、結局自分しかいないという強い矜持である。思えばバイクで「逃げる」とはいいながら、やけに飄然として村を過ぎ去っていったっけ。
神の座から逃げ出す男で終われば、その人間らしい弱さに共感できるし、また、翻って社会の罪の大きさへの批判となるだろう。ひょこっと戻ってきたのであれば、今度こそ長くあり続ける伊野の心の闇の清算につながるだろうという希望を感じさせてくれる。かづ子を看取ってあげたいという気持ちのどこにも罪などは存在しないだろう。ようやく伊野の人生の中で罪の意識を感じない生き方が始められることを予見できるからだ。彼の罪は「引き受けられた」のだ。
※余談だが、かづ子のガンは、その後の律子の言動などから末期であったことが想像できる(胃の写真見れば一発でわかるだろってことなのかも知れないけど…わからんよ)。あれは、伊野が知った時は既に手遅れであることを、もっと具体的にしておいて欲しい。例えばスイカを持ってきた相馬が写真をみてそう言うとか。でないと、伊野が自己保身やもしくは、子を思うかづ子との約束のためだけに、治療を放棄しているようにとられかねない。もしそうだとしたらまるで意味の違う話になってしまう。これ『ゆれる』の時の主人公の証言の本当かウソかが不明瞭で、いらぬ混乱を引き起こすっていうのと同じように思う。
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