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[コメント] ノウイング(2009/米)

ニコラス=ケイジでやる映画かね、と思ったが、ケイジでやったから意外と座りの良い映画になったのだろう。(review は長文駄文で、ほんとに済みません) ☆4.8点。
死ぬまでシネマ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







一見終末論な映画は久しぶりのような気がする。それでいて終末論とはちょっと違う気もする。

「決定論(因果律)と非決定論」とは、「科学と宗教」の関係に近いのだろうか? 私はこの映画に宗教的感覚を感じた。と言っても"アッチ系"というのでなく、本来の宗教が扱うべき領域という意味で。

まず「彼ら」の登場をして"アッチ系"と断ずるのは軽々に過ぎると思う。「彼ら」の存在を大きく捉えすぎると確かにこの映画は終末論的になる。しかし私はそういう解釈はしなかった。

別に太陽のフレアを発生させたのは「彼ら」ではない。「彼ら」は我々よりも早くにそれを察知していただけの事だし、「彼ら」の行動は我々の滅亡を儚んだだけの事だろう。「彼ら」にもフレアを止める事は出来なかったようだ。また「囁き声」は「彼ら」のものではないと私は思う。タイムカプセル云々の話も「彼ら」が仕組んだ事ではないのではなかろうか? 「彼ら」が地球の危機を知ったのは50年も前ではなく、ごく最近かも知れない。… だから「彼ら」が居なければ、子供たちも含めて全てはただ消えていただけの事だろう。

ではこの物語に「彼ら」が登場する理由(存在意義)はなにか? 彼らの存在意義、それは即ち我々自身の存在意義に他ならない。「彼ら」がいなかったならば、我々は絶滅し「無かった事になる」。我々が存在するという事、それは我々以外の他者が我々の存在を知る事(=我々が他の生命体ETを発見する事)、若しくは生命が引き継がれる事、だという意味が込められているのだ。

そして「彼ら」はそれ以上の存在(=我々以上の存在)でもなんでもない。決して神でもなければ決定者でも、審判者でもない。もう一度言うが「彼ら」は我々の存在を認めたからこそ、可能な限りの子供を他へ移してくれたに過ぎないのだ。「彼ら」は我々の存在意義と生命の継続を位置づける為の物語的存在(装置)なのだ。

「彼ら」は何故もっと早く警告し、避難させなかったのか(詰まりご都合主義な"アッチ系"存在ではないのか)、という非難もあるだろうが、私は「果たしてそうだろうか」と真剣に思う。何度も言うが彼らは神ではない。他文明に過ぎず、地球の滅亡を防げない。その中で彼らが採った行動としては充分あり得ると思われるのだ。もしもっと早くに警告し、避難を開始していれば、地球の滅亡はもっと早まり、悲惨や混乱の中で、死への覚悟や時間的余裕など全く無くなっていた可能性は充分にあると思う。それに、自分の思考方法で他文明(生物)を完全に理解しようとするのは人間の悪い癖だろう。

最近よく思うのだが、科学的を装っている現代人だが、その実生活の大部分では非科学な解釈をしているではないか。また科学的因果律では人間の思考さえシナプス物質伝達の結果とのたまっているが、実際には感情の内容を数値化し人間自身が理解する事などとても無理であろう。また数値化とは評価の「目安」に過ぎず、ヒトが成す判断自体は数字では表せられない。詰まりは普段現代人は決定論(科学的思考)の中心に居るような気で居るが、その集合の外には寥々とした非決定論的世界が広がっているのではないか?

この映画で科学的でない(この場合「胡散臭い」の意)のは「宇宙人の登場」「予知能力(囁き声)」「ケイジを巡る偶然」の3つだろう(太陽フレアが地球を襲う事は非科学的ではない、これは確率論の問題)。確かにこれらは胡散臭いのだけれど、宇宙人も非常な超能力を持っている訳ではない。高度な宇宙船でやって来たに過ぎず、物理法則に縛られている現実的な存在なのである(多分)。生き延びた子供たちに永遠の長寿が与えられる訳でもないし、死んだ妻が蘇るのでもない。地球の滅亡(=人間の死)が避けられない所にこそ、私はこの映画に科学的な意思の強さを見る。3つの内の後者2つは、我々が生きている中で感じる非科学的なものの象徴であり、その誇張はあるものの映画的には許容範囲内だろう。

子供たちが降り立つ<ナウシカ的楽園>は、父親(ケイジ)の願望の表現である。死に行く親は我が子の行く末までは見届ける事は出来ない。しかしそこにはきっと希望があると信じるのだ。

ズバリこの映画の最大テーマは「(ヒトの)」ではなかろうか。最近また思うのだが、死は公平である。死は優しい。死を残酷非道にしているのは人間の方ではないかと思う。この映画に於ける主人公の最期は「死の公平さ」の表現だろう。「地球の滅亡」とは詰まり「自分の死」と同義だ。そして息子(次世代)の生命は残る(残す)。息子は泣くが、勿論息子だっていずれは死ぬ。だから「永遠に一緒」なのだ。私はケイジの「I know, I know」の台詞を聞いたら涙がドッと溢れ出してしまった。

この映画、自分の中でもいつまで☆5点か判らない。決して完璧な作品ではない。しかし心を揺さぶったSF作品である。この映画をクソ映画と考えてもいいと思うが、それはこの作品の製作レベル(CGなど)を低いと評価したのでなければ、その評者はとても若さに溢れているからなのだと思う。暇だったら10年後に観直してみて欲しい。

天使と悪魔』にも「宗教と科学」という言葉が出てくるが、あちらの映画が宗教の意味を理解しない人間が作った浅薄な娯楽作なのに対し、こちらの映画では科学(法則)を内包した宇宙を理解する方法としての宗教観を感じた。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)YO--CHAN[*] BRAVO30000W![*] Zfan

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