[コメント] 20世紀少年<最終章> ぼくらの旗(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
#1「君は子供の頃、何になりたかった?」
かつて私は、『ピンポン』と言う映画のレビューで、少年漫画のコンセプトを、「君は何にだってなれるよ!子供たち」だとするならば、青年漫画である「ピンポン」は、「誰でも最後は「なにか」になって行くのだ」と言う話だ、と書いたことがある。それがより大人にとっての現実であり、納得のいくコンセプトだと。
ところが、あらためてこの最終章を観た時、『20世紀少年』と言う作品のコンセプトは、
「君は、何にだってなれるよ!大人たち」 なのだと気づかされた。同じ青年誌に書かれた話にも関わらずだ。
これは、実は裏を返すとひどく過酷で残酷な "希望=現実" だと思う。「ピンポン」のコンセプトが、どの大人たちすべてにも、親切でやさしいのとは対照的だ。そして、脚本はあえて繰り返しそこを挑発する。どこに届くかわからない、ラジオのように。
ヨシツネがユキジに言う。「"ともだち"は、かつて自分がなりたかった大人の姿と 今の自分自身との間に、許しがたいほどの違いを感じている」
山崎が言う。「長さんは自分にとって越えがたいほどの壁だった。"ともだち"が、越えられない壁ならば、壊してしまえ、と言った」
かつて、ロックミュージシャンになりたくて、しかしその夢を捨て、家業を継いでいた一人の男が、殺人にも等しい自分のすべての罪業を思い出し、受け止めきれずに逃げ、逃げて、当然逃げ切れず、そして、ようやく
"自分は最低だ"
と、知る。
「おまえの、名前は?」とやさしく問われ、
「えんどう、けんぢ」と、受け止め、
そうしてその時本当に、彼は、
なりたいものになった。
それは、ロックミュージシャンだとか、ウジコウジオや角田のような漫画家だとか、そういう形の上の職業的なものではない。なりたいものになれれば、反対に、そういうものになるのは簡単なのだ。だから彼は、アラカンにしてロックミュージシャンとなった。
そして、"ともだち"は …………………。
"ともだち"が本当になりたかったものは、世界を救う救世主。
そして、ケンヂのともだちになること。
ラスト、その望みがかなえられる。
虚実の交じり合う、せつない夢の中で。
彼が考えついた「あれ」が、ずっとのちに人々の心を支え、ひいてはささやかに世界を救う。
ケンヂが思い出した「すべて」の中には、自分の罪と同時に、「あのフレーズ」があったのだった。
*** 鑑賞数日後に気づいたこと… ↓
#2「大人の特撮」
ところで、今更ながら、この映画の映像文法は、俳優の演技、演出含めて基本的に日本の"特撮"のものなのだ、と気づきました。「仮面ライダー電王」とか、「シンケンジャー」とかの…(このへんは東映ですけど)。そう考えると、改めてこの映画の"実験性"が、具体的にわかった気がします。
考えてみれば、「秘密基地」だし「世界征服」だし「正義の味方」だし、ナショナルキッドのお面だし、スチール写真で子供たちはいっせいにスペシウム光線のポーズを取ってるし(オッチョはセブンの光線ですね、えーと、眉間は、何光線でしたっけ?女子なんかの私より、そのへんのモチーフは、男子のほうが断然血肉となってると思います…)
ケンヂ=レッド オッチョ=ブルー ヨシツネ=グリーン マルオ=イエロー ユキジ=ピンク と言ったところで、美術小道具を含めて、特撮の映像文法で撮るのは、ある意味「監督」の順当な選択ですよね(予算的にも・ジョニデの一本の出演料だけで60億円、と言うハリウッド映画と比べて)。
いかんせん原作漫画がその文法の漫画映像ではなかったのと、俳優さんのタイプが違うので、意外と気づくのが遅れました。翻って特撮っぽい映像の漫画というと、ゆうきまさみとかかな。
でも考えてみれば、主人公俳優は、自分がもともと特撮番組のスーツアクター出身であることに、常に誇りを持っている役者さん@唐沢くんだし、ヒロインの少女時代は、電王で活躍している子役さんだし、あてはまる部分が多かったんですね。
ヒーロー特撮の東映に比べて、円谷英二にはじまるドラマ特撮の色合いが濃かったかつての東宝特撮映画。『20世紀少年』全3章は、やっぱり東宝系だなあ。
*
#3「哀しい実験・いいもんがわるもんで、わるもんがいいもんで」
* 第二章のネタバレを盛大に含みます。
フナの水槽のスイッチ。
第1章のそのシーンは、真相を知らないモンちゃんの回想なので、ドンキーが自分でスイッチを入れてます。けれど、第2章では、ドンキーが行ったとき、スイッチはすでに入ってる。
ヴァーチャルでのシーンだけど、「過去の現実」はこちらだったのだと思う。
フナのためにスイッチを入れてあげたのは、あのヴァーチャルを作り、実際にあの時、理科室にもいた、フナの実験が大好きだった「あの子」。
彼はずっとどうしても「生き返り」たくて、「生き返り」たくて、自分を生き返らせてあげたくって、親切なヤマネくんといっしょに、自分を「生き返らせる」実験をした。
万博を再現したかったのも、自分の中でとっても大切な思い出だったから。
子供時代のヤマネくんがオッチョに言う。「君みたいな子が、ケンヂ"なんか"とつきあわないほうがいいよ」
今なら思う。まったくだ!(笑)と。
ヤマネくんは、ただずっとともだちと遊んでいただけなのに、いつのまにか自分がわるもんになっていることに気がついた。
なんとかしなきゃいけない。終わらせなきゃいけない。だからともだちを殺すことにした。
「きゅうせいしゅは、せいぎのためにたちあがるが、あんさつされてしまうだろう」
"きゅうせいしゅ"は、カンナでも、ほくろの警官でも、そして"ともだち"でもなく、
微笑みながらひっそりと殺されていった、ヤマネくんのことだったのだ。
そして同時に、「せいぎのためにたちあがるがころされてしまった」しんよげんの書を書いた子供の頃の「あの子」自身のことでもある。
この映画には、いいもんとわるもんがごったになっている。オセロのコマのようにひっくり返る。
いいもんもわるもんも両方いる。
一人の人間の中に。
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