[コメント] カムイ外伝(2009/日)
2009.9.22 新居浜TOHOプレックスにて鑑賞。
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脚本に宮藤官九郎が絡んでる時点で嫌な予感はしていた。予想は的中で、かなり安易な説明ナレーションから入ってしまう冒頭の構成に、「俺は死にたくない」だの「愚民どもが」だの、原作では決して登場しないセリフの数々にがっくり来た。
また、小雪の腰の入ってない刀の構えに、鎖がまの使い方を思い切り勘違いしているシーンや、当時の火薬技術ではとうてい起こりえない大爆発など、役者の鍛え方が足りなかったり、時代考証を無視している場面が非常に気になる。
さらに耐え難いポイントは四つある。
一つは節度のないワイヤーアクションの使い方だ。身体を極限まで鍛え抜いた超絶忍者の繰り出す技が見所の忍術武芸帖だからして、当然常識ではありえない動きは描写されてしかるべきだが、一目でワイヤーアクションとわかってしまうほどの物理法則を無視した動きは、この手の時代劇には禁物だ。屋根の上に一気に飛び上がるのはいいとしても、不自然な滞空時間と空中平行移動はリアリティを大きく削ぐ。電脳世界が舞台の『マトリックス』や、拳法コメディの『少林サッカー』では許されても、時代劇ではこうした不自然は許されない。TV版『赤影』くらい突き抜けるなら話は別だが、この映画のムードはそこを目指してはいないはずだ。
二つ目に気に入らないのは、変移抜刀霞切りの描き方だ。この技はカムイの必殺技であり、小太刀を背面に隠して敵に向かって走りながら、常人では考えられない運動能力でもって激しくサイドステップを繰り返し、最終的にどちらから刀を抜くか判らぬまま敵の脇腹を切るという世にもしびれる技だ。しかるにこの大技を、この映画ではまるで分身の術みたいに描いてしまって実に興ざめである。
三つ目は土屋アンナ。どういうコネで出てくるのか芸能界の仕組みはよくわからないが、最近時代劇にやたらとこの鼻の穴の大きい女が出てくるのだ。しかし、彼女が出ると画が安っぽくなって制作費がもったいないのである。
四つ目は倖田來未のエンディングテーマだ。歌い手が倖田來未であることはこの際横に置いても、カムイ外伝のエンディング曲と言えば、水原弘が歌っていた「独り〜、独り〜、カムイ〜」という曲を置いて他にないのである。
こうして並べていくと、制作陣はかつてTVアニメ版『カムイ外伝』を、心震わせながら見たことのない連中なのだろうなと実に残念だ。
しかしながら、山崎努のナレーション、芦名星(篠原涼子だと思っていた)が演じる追忍、大後寿々花の秀逸な演技、伊藤英明の熱演ぶりなど、個々の出演者の存在感は光っており、最後まで持ちこたえることが出来たのは彼らのおかげだろう。
松山ケンイチは、カムイを演じるには声が少々甘いのだが、他にじゃあ誰が演じられるかと言えば彼を置いて他にはないだろうなと思わせる雰囲気があった。一方、小林薫は上手くて当たり前なので、さほどの感激はなかったが、当然の様に芸達者だった。
原作に対する愛情や敬意の全く感じられない宮藤官九郎を持ってきたのは空前の大失敗だと思われるが、それでもなおエンターテイメントとしてなんとか二時間持ちこたえられる出来には少々安心した。
非常に残念なことに、この映画は続き物として構成できそうな作りになっていないため、続編やビギニングの類はおそらく制作されないだろうなと、寂しく思いながら劇場を後にした。続き物としての物語構成こそが『カムイ外伝』の魅力なのだが。
思い入れの深い作品だけにいろいろと文句はあるのだが、この映画のおかげで白土三平の劇画に再びスポットが当たるのは素晴らしいことであり、この映画を見て原作を見る人が増えるのは、それもまた良いことだなと思った。なお、『カムイ伝』という話は、江戸時代以前から連綿と続く差別の歴史を背景に、自由を求めてもがく人々の姿を描いた、日本の劇画史に輝く傑作中の傑作である。この映画では、現代日本においては、ほぼタブーとなっている「非人」という言葉をあえて使い、かなり踏み込んだ描写も試みているが、今もなお人の心に巣くう差別や、それと闘う人々の心というものがもう少し描かれていても良かったかと、さらなる欲を感じずにはいられなかった。
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