[コメント] 告白(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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松の造詣は冷徹な人間観察を根拠とする性悪説の伝道師であり、『ダークナイト』におけるジョーカーと相似形をなす構図だ。教師と教育されるべき「幼児の群れ」いう設定の完全なる必然性と冒頭の的確な演出(赤ん坊の泣き声、ミルクという道具)。
そして何よりこの作品が反語的表現であり、単なる復讐と血に酔う露悪に終わらないメッセージ性を獲得するのは、喫茶店で美月との会話の後の路上で松が泣き崩れて膝をつくシークエンス。この涙には「彼女の教育」が目論見通り成就していくことへの哀しみも含まれている気がするのだ。彼女は自らの目論見が成就していく様を、本来は望んでいないのだ。「復讐」という動機はある。しかしその目論見は人の性悪説を根拠としており、ことの成就は人の本性としての醜さを証明してしまう。対比する信念を抱いていた教師を夫に持つ彼女は、虚無にとらわれていたとはいえ、本来それを悪しきものとして生きてきたはず。仕掛けた罠が次々とパズルのピースを埋めていくごとに、彼女は夫の信念への裏切りを重ね、彼の信念の無力を証明してしまうのだ。しかし彼女は全てを「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨て、彼女の「人」としての涙は枯れてしまう。彼女の涙にジョーカーの剥げかけたメイクと同じ哀しみを見る。この憎悪のジレンマ。都合のいい解釈かも知れないが、この涙で、私の中の何かが決壊した。これほど哀しい決意に満ちた復讐を全世界的に展開する様が描かれているものを観たことはない。信じたいのに信じることができない悲劇。彼女の敵は世界そのものなのだ。
能面の下に哀しみと憎悪のジレンマを隠すジョーカーに託して、反語的に命の重さが謳われる。グロ描写に溺れない透徹した知性。これは性悪説を肯定する映画ではないのだ。テーマの理解と技法を正確に結びつけ、遂に中島哲也は反語表現を極め、真に作家としての名乗りを上げた。なべて幼稚なガキ共は「教育」され「嫌悪」し、「成熟」するがいい。唾棄されることによって本作は完成される。お前達にもこの血は流れている。それは地獄の業火を持ってしても消し去ることの出来ない現実。それでも全霊を込めて抗え。この映画を「な〜んてね」の一言で笑い飛ばせ!ブラボー。
・・・と手放しで称賛したいところだが、言うまでもなくこれは原作の完成度に依拠するところが大きい。また、今までよりも有効に作用してはいるものの、少年B(直樹)の告白シークエンスで見せる漫画的表現に未だに「語る」ことへの「照れ」の悪癖が見える。次が本式の勝負となろう。心して次の一手を待ちたい。
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