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[コメント] パリ20区、僕たちのクラス(2008/仏)

生徒と教師の、そして教師同士の意志と言葉がぶつかり格闘する臨場感。人と人との間に割って入るような行儀の悪いカメラの視線の先で、相手(被写体)の頭や身体の一部が常にフレームからはみ出す。登場人物だけでなくカメラまでもが挑発し存在を主張し続ける。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







移民という二重のアイデンティティを持つ者(自らの裁定の席で母の言葉を通訳するスレイマンの切なさ)たちが寄せ集まり、さらなる混沌(実は孤独)と白人(国家)に対する漠然とした連帯を生む場。それが彼らが毎日通うあの教室なのだ。たとえそれが間違いであろうがなかろうが、大声だろうが沈黙(あのゴス少年)だろうが、彼らは、彼らが彼らであるために主張し続けるのだ。

そんな子供たちの喧騒を正面から受け止め、少し挑発しながら、さらなる喧騒のなかに意志の疎通する隙間を見い出そうとする教師フランソワ(フランソワ・ベゴドー)。しかし、そんなフランソワら教師同志の意見の交換とその苦悩も、実は子供たちと五十歩百歩だ。自分が十代の生意気ざかりだったころを思い出してみるとよい。教師たちと、ここに集まった子供たちとの差は、多少の人生経験と、それに裏打ちされた社会的バックボーンがあるかどうかという過ごした時間の違いだけだ。

教育に出来ることと出来ないこと。もちろん、数学や物理の正解を導き出す知識と手段を知っていることも、社会生活を営むための正しい言葉遣と礼儀を身につけることも大切だ。しかし、教育の役割のなかで、最も大切でありながら最も難しいことがある。それは、問題の答えは決してひとつではないということ、すなわち世の中は「違い」に満ちているという事実を、自らが認めることの大切さを理解するということだ。

この世界には自分と同じ感情や意見や感覚を持つ人たちの、何倍もの「自分とは違う」人たちが暮らしているのだから。そして、私(たち)も、また相手も自らの意見を主張し続けることでしか、自分と違う主張を持つ者たちとの接点を見つけることはできないのだ。その接点は、この一年に渡る教師と子供たちが、そして教師同士が、自己主張のぶつかり合いの末につかんだように見えた、ほんの微かな心の変化の奥底に必ず潜んでいるはずなのだ。

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