[コメント] 仁義なき戦い(1973/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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これ主人公が、ヒーローになるために修行をする、例えば少林寺のような異界の門をくぐり、そして最後その門を出るところで終わるヒーロー譚になっているんだな、と思った。堅気の時から圧倒的な「その道」の才気を放ち、「こいつが(少林寺のような)修養の門に入れば最強だろうな」と思わせる。そして期待通り、その門をくぐっていく件は、ヒーロー誕生の予感にクラクラワクワクするのだ。
そして成長を遂げた主人公は、ラストで異界の門を去って旅に出ていく。これはまさしく剣豪小説の第一章の展開だ。そりゃ男の子が好きに決まってる。
余談1。
そのラストに関することで一つ思ったこと。昔の邦画はオープニングでスタッフ・キャストのクレジットを出しているので、逆に終わりは「終」とか「完」で潔く終わる。黒澤の用心棒シリーズもそうだが、このエンディングの切れ味はこのスタイルであってこそ。どうして今の映画は、クレジットがエンドロール型なんだろう? だらだらとタイアップ企業のクレジットを見せられつつ、「明かりがつくまでが映画です」のモラルに従って最後まで一応席を立たずに観ているが、そういう今のスタイルに懐疑的であってもいいよな、と思う。あれはあれで余韻に浸るという良さが感じることもあるけど。
余談2。
傑作コミック「風雲児たち」のみなもと太郎のマンガ「仁義なき忠臣蔵」で、江戸時代にお家とり潰しを受けた大名は数限りなくあるのに、なぜ赤穂藩だけが主君の仇討ちという暴挙に及んだのかの最大の理由としてあげてたのが、赤穂藩士が広島弁だったから、ということ。つまり主君切腹の後の藩内の協議が紛糾するやいなや、自分たちの広島弁に自分たちで興奮し、「親の仇とったろかい!」という「討ち入り論」の流れに否応なくなっていくというもの(でも藩士の中でたったの47人だけなんだけど)。そういえば、いわゆるヤクザ専門雑誌なんかの読者投稿欄などを読むと、一般人は年末にしか意識することがない大石内蔵助のたとえが季節を問わずたびたび見られます。ヤクザの世界の人たちにとって忠臣蔵へのリスペクトは半端ないのだと思われます。日本人がヤクザ映画と忠臣蔵が大好きなことは根が同じで、実は両者は広島弁を操る人たちだったということ。
本作で広島弁をシャワーのように浴びて、映画を観終わった後、やたら強気になる自分を実感しない男子はおらんじゃろ。
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