[コメント] ハタリ!(1962/米)
ホークス自身はどこの組織にも所属しなかった男であり、あるプロジェクト的特殊任務を果たすためだけに離合集散する男たちを何度か描いているが、それらの作品群(たとえば『赤い河』、たとえば『遊星よりの物体X』、そしてなによりも『コンドル』)の中においてみても、コメディ性と多幸感の強さは本作に極まる。
象や豹といった動物たちの登場に加えてレッド・バトンズの至芸により、コメディ性がみなぎっていることは間違いないのだが、そうした「俳優たち」だけがコメディ性をもたらすのではない。仕事から恋に、恋から仕事に、そして今度は仕事から酒席に移りかわっていく画面転換の、非現実的なまでに省略の利いた軽快なスピード感によって、往年のスクリューボール・コメディ作品群に通じる喜劇的世界が立ち昇ってくる。
そして多幸感の起爆力のいくらかはこれまた動物たちの登場により持ち込まれていることは疑いないのだが、ベクトルを一つにした人間たちによる理想的分業と協業が、困難なシチュエーションを乗り越えて高い目標を達成してしまうという状態を幾分かの真実と幾分かの虚構を交えて描かれたことで現出していると感じる。
分業、これほどホークス的登場人物を表わすのに適切な言葉もないだろう。ホークスの映画に登場する男たちは常に何者かの専門家である。専門的職能の要素を何気なく導入することでホークスの男たちのキャラは美しく立ってくる。一歩間違うと戯画的になるため手綱捌きが難しいのだが。運転のうまいカート、射撃のうまいインディアン、発明の得意なポケッツ。こうした分業の総合によりプロジェクトは実現する(ホークス的シチュエーションの典型)
分業が分業足りえるのに協業が必要なことは言うまでもない。ホークス的な危機はこの分業と協業の間での人物たちの認識や行動の齟齬から生まれるし、その齟齬をもういちど解決しもつれた糸をほぐして人物が収まるべきところに収まることがホークス的物語の終結である。基本は「始めに戻る」のである。(ホークスの登場人物は映画の中で学習して何者かに変わるという事態が少ないように思う。最初から完成しているからだ)
今回、この作品においてはホークスは齟齬を封印した。(導入部でのインディアンの怪我はちょっと措いておこう)そのことでドラマ性は押さえられ、起承転結といういかにも劇的な時間の流れが消えて、春風駘蕩な時空が生まれてくる。それが多幸感のベースである。また、ブランディやダラスといった母性的な人物の活躍も多幸感の醸成に大きく寄与している(それはまた別の長い話になる)
しかしこの齟齬の封印が別のマイナスを生んだのは間違いないだろう。この作品に感じる幾分かの虚構とはこの協業の成功の安易さにある。仕事とはもっとうまくいかないものなのだ。そこにこの映画の虚構としてのミソというか限界がある。特に黒人白人の間のそれに出来すぎ臭さを感じざるを得なかった。まあ、公民権運動たけなわの時代の制作であるから人種対立など野暮なものをホークスは映画に持ち込みたくなかったのであろう。こうしたポリティカル・コレクトネスを必要とする部分での設定軽視もまたホークスの特徴といえなくはない。
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