コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] アウトレイジ ビヨンド(2012/日)

恐るべき出来の良さ。群像劇になって物語が一気に拡大してるのに、その中できっちり主人公の存在を示してる。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 前作『アウトレイジ』で新境地…というか、元々の作風に戻した感じのある北野監督。この作品、とにかく暴力描写がきつく、それでむしろ「よく作ってくれた」と大満足したわけだが、その次の作品に『アウトレイジ』の続編を持ってきた。これはもう観るしかないだろう。という感じで観にいってきた。

 それで正直な話、びっくりした。

 前作はとてもまっすぐな話だった。基本、暴力に生きる輩は、暴力によって死ぬという話を、突出した演出によって見せつけた作品だった。それについては既にレビューで書いたのだが、あの時に書いたもの自体、本作が投入されることによって、それ自体が上書きされてしまったほどに本作は面白い。

 前作においてビートたけし演じる大友は、やくざの世界に身を置く以上、そこでの生き方を全うする。その意味でとても誠実な男だった。あれだけの暴力を使っていても、それはやくざ世界における親子関係を大切にしているため、親に逆らうこと自体が出来ない。彼にとって暴力は楽しんでやってるのではなく、これはこのような世界の中にいるのだから仕方ない。と割り切ってやっていた人物であった。

 しかし、彼がどれほど誠実であっても、否、誠実であればあるほど、その暴力は激しくなっていき、それによって、彼も多くの恨みを買うことになる。結果として、自分が誠実に仕えた人間によって裏切られ、一家は全滅。更に自分の育てた子によって売られ、最後は刑務所で刺される。

 この前提あってこそ本作は成立する。

 それで彼は、完全にこの世界について絶望している。だから出所しても、もうこの世界に帰るつもりは無かった。少なくとも、同じ場所に戻るつもりは全くない。何人もの人間に恨みを抱いてしかりの男が、その恨みすら抱けないほどの絶望を抱いてしまっている。これを象徴的に表したのが、刑務所で彼の腹を刺した木村に謝られた時、「全く気にもしてない」と言っていたシーンで、あれは心から出てきた台詞であろうと思われる。

 それでも再びこの世界に帰ってきたのは、自分が必要とされている間だけ、本来やる気の無かったけじめだけは付けるためにこの世界に帰ってきた。

 実際の話、これだけでもきちんと話は成り立つ。それでも続編としてはきちんとした作品が作れただろう。

 しかし監督はここで更に設定を増やした。

 結果、本作は群像劇として作られることになり、基本一本道だった前作から世界が一気に広まった。

 ここで主人公となるのはたけしの大友だけではない。かつて大友を裏切った加瀬亮演じる石原と組長を殺害して自ら後がまに座った三浦友和演じる加藤。大阪からこれをコントロールしようとしている高橋克典演じる城と西田敏行演じる西野。古いタイプのやくざで、落とし前をつけ、再び一家を持とうとしている中野英雄演じる木村。そして彼らの間を渡り歩き、バランスを取ろうとしている小日向演じる片岡。

 概ねこの4つの集団若しくは個人が、それぞれ主人公格で存在する。そんな彼らのぶつかり合いや駆け引きが同時並行に描かれ、その中で大友の出所により投じられた一石の波紋が広まっていくことが描かれていくことになる。

 そして群像劇それぞれにちゃんとテーマがある。

 かつて親分を裏切り、一家を広げた加藤と石原の二人は、前作からの設定を引きずる。この二人が前作からの直接的な続編を担っている。具体的には、前作のテーマであった「暴力に生きる者は暴力に死ぬ」となる。続編として描く場合、彼らの行く末は最初から決められていたので、彼らの生き方が続編の正しい話となる。

 そして大阪やくざは、完全に損得勘定で動いており、自分たちに得があると見ると関与し、自分が何者かによって動かされていることを知ると、絶対関与しない。完全に自分自身で完結している組織として描かれる。最も非人間的であり、効率主義。そこには山王会とは違うが、やはり仁義は全く存在しない。感情の入る余地がない恐るべき固い組織である。

 その狭間にいるのが木村。彼は古いタイプのやくざで、仁義を信じている。それはしつこいほど描かれていく。たとえばそれは自分の子が殺されたら、その復習をすることがアイデンティティと考えている事とか、大阪に乗り込んだとき、自らの指を詰めたことでけじめを付けて、それが認められたと思いこんでたりする。そうでないのは前述の通りなのだが、それでも仁義を信じ続ける。

 最後に警察の丸暴にいる片岡がいる。本人は自分自身をトリックスターと位置づけ、自分の手のひらでやくざ同士が抗争をしているのを眺めるのが好きな人間。彼にとって仕事はゲームの一つであり、時に自らの命の危険もありながら、それも含めて楽しんでいる。

 これだけの物語の広がりがある。よくもまあこれだけ広げて、しかもきちんとそれぞれを主人公として描くことが出来た。たいしたものである。

 そしてそれらをすべて統括して眺めているのがたけし演じる大友であった。彼は全てに引いてものを見ているため、渦中にある他の主人公たちがどの位置にあり、どのような時に介入すれば良いかを心得ている。前作とは全く違った立ち位置である。でも前作のような出ずっぱりよりも遙かに、全てを統括する主人公として存在感を出すことができた。

 例えば大阪に行った時、大友は花菱会を前に不遜な態度を崩すことがない。これは花菱会が鉄砲玉として自分たちを使うことが最初から分かっていたので、どんな態度でも構わないと知っていたから(一緒に行った木村は指を詰めて、それが認められたと思っていただろうが、そうでないことも大友は知っていた)。そして大友が人を殺す時は冒険をしない。このタイミングで殺せば問題無いことを知った上での殺人を犯している。最後に片岡を殺した時はその真骨頂だろう。大友にとって片岡はどうでも良い存在であり、片岡自身がそう思っているから、たった一人でまるっきり無防備な姿で大友の前に姿を現した。それで大友は、そんな彼の姿を見て、今なら殺しても問題無いと判断したからなのだろう。あれは計算して行ったことではない。たまたまその機会が与えられ、そして今殺してしまった方が後々のためになると判断したからに他ならない。

 結果として、前作で誠実だった主人公が、明らかに枯れて変質し、そして北野武本人を思わせるキャラになっていた。本人だけに、はまり具合も高い訳だ。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)3819695[*] 赤い戦車[*] おーい粗茶[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。