[コメント] 悪の法則(2013/米)
死の恐怖と性的興奮は似ている。なぜだかは分からない。両方ともアドレナリンが出るからだろうか。リドリー・スコットの映画では死はどこから現れるか分からない。だから必然的に全部が死のメタファーになってしまう。リドリー・スコットの映画の妙な無時間性の半分はこれが原因だ。死という緊張だけで魅せてしまうのだ。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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リドリー・スコットの映画では常に死のにおいがする。彼の映画ではすべての死がはるか遠い彼方から登場人物を虎視眈々と狙っている。どこに死が潜んでいるか分からない。死の姿は見えない。見えても一瞬だ。そして見えた瞬間にはもう手遅れだ。
そしてすべての死がオートメーション的に訪れる。レプリカントはロボットであるし、エイリアンもまた「完全生物」であり、またこれらのオートマティックな存在も死ぬときはオートマティックに死ぬ。たとえばレプリカントの寿命。あれは原作には無い設定だったはずだ。そもそもエイリアンはマザーコンピューターと「会社」とアンドロイドが隠れた敵なのだ。
この映画でも死のオートメイションは顕在だ。いや隠れながら顕在というべきか。あのブラッド・ピットの首に巻きつく愉快な機械もそうだし、スナッフフィルムのDVDもそうだ。
死がオートメーション的に訪れるということは死がいつどこで訪れるかリドリー・スコット自身にも分からないということなのだ。リドリー・スコットにも分からない原理で死は動いているのだから。ここでリドリー・スコットの映画の奇妙な無時間性の理由のもう半分がお分かりになるだろう。リドリー・スコットは登場人物がいつ死ぬのか実は分からないのだ。
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