[コメント] かぐや姫の物語(2013/日)
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『アルジャーノンに花束を』や、グレッグ・イーガンのような近年のSF作家が好んで描く題材が、テクノロジー起因による「アイデンティテイ」の転換による「それまでの自分の喪失」だ。楽しかった里山、おじいさんおばあさん、子供たちとの生活、都のきらびやかな暮らし、その良かったこともそうでなかったことも含めて、それまでの記憶が一瞬のうちに無くなってしまい、2度と思い出せなくもなる。その「それまでの自分の死の予感」、「新しい自分による新しい自分の人生の肯定(というそれまでの自分の完膚なきまでの自己否定)」という恐怖。かぐや姫の物語って、そういうことだったんだ、ということが初めて分かった。最古のSF小説とも呼ばれる竹取物語が、捉え方によっては自己の喪失を題材としたSFの系譜に連なってくるというのは興味深い。
日常シーンの尺の長さなのか、描きこまれない絵や、鳥や虫の声、せせらぎ、床のなる音などの音響のせいなのか、鑑賞中刷り込まれてきたそれまでの膨大な思い出。2度と自分は思い出せなくなるんです、ということは、その確かに存在したことのあったかけがえのない事柄は、そのうち誰の頭からも忘れられてしまい、永遠に消えてしまうのです、という、かぐや姫の悲しみが痛烈に自分には伝わってきた。だからこそ、今の日常の大切さのことに気づいて欲しい、という監督のメッセージは、このラストに込められていると自分は思った。
これは邪推だけど、2度と思い出せないといったかぐやが月に向かう途中、悲しげに地球を振り返るシーンがあるが、あれは、本当は一顧だにしないかぐやを描きたかったんだと思う。ただ、振り返って悲しむほうが、わかりやすい。監督は悩んだのではないだろうか?
もうひとつこれも完全な邪推だけど、監督は、当初は持てるアニメの技術で、少女の天真爛漫な振る舞いのその美しさを描くことを主眼においてきたのが、むしろラストでの喪失にシフトするようになっていったような気がする。それは多くのクリエイターに東日本震災が与えた「だしぬけに奪われるそれまでの絆」というモチーフによるものだという気がしてならない。
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