[コメント] 青天の霹靂(2014/日)
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妊娠、病状などの告白、産気は柴咲コウの平手打ちによって運動として包まれ心理的な愁嘆場となることを回避し、また医者から劇団ひとりが説明を受ける際はガラス越しのショットとして処理される。
狭い路地を駆け抜け大通りへと出て俯瞰になるショットや大泉と劇団ひとりが言い合いながら舞台裏を通りステージ上で対峙する長回しも荒削りながらその気合に魅了される。大泉と柴咲が病室で話すシーンでは降っていた雨が止み、会話の盛り上がりと共に窓外から太陽光が差し込む。雷門ホールの看板の裏で打ち合わせする2人を照らすネオン。冬には雪が降り、春には桜が咲く。「冬だねえ」「春だねえ」などといちいち言わせない。テンプレ的といえばテンプレ的だが、少なくとも映画であることに拘っているこれらの意欲は買うべきであろう。
また、本作は手品の「種」を一切描かないから、クライマックスでの宙を舞うチューリップが映えるし、時空を往還する理由も省略することができる。手術台のライトとショーの照明の繋ぎ、光を当てられた大泉の横顔の美しさ。三者三様の様子が映し出されると共に、子供のトランプマジックを見る風間杜夫の存在も忘れられていない。そして偶然か意図的か、柴崎の手が落ちる動きと宙を舞うチューリップが地面に落ちる動きが同期する。その花が大泉によって再び動きを取り戻し、空へと浮かぶ際の感動。或いはラストシーンの土手(ここでの空に浮かぶ雲の具合がまたよろしい)、大泉をナメながら1ショットで2つの時空を繋ぐ様。映画は「嘘」でいい、ということを知っている。
最初のマジックバーでの会話は視点が少し多すぎる気がするのだが、アクション繋ぎを使っているし、まあ看過できる程度ではある。水道管が破裂して水浸しになった部屋はまるでタルコフスキーのようで異色だが、脚本上の意味においては「帰るところがなくなった」ということか。序盤のどん臭さ(特に、写真を見て泣き出す大泉を仰角で捉えたショットはつまらない)さえなければ「傑作」という単語をも口にしただろう。
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