[コメント] フューリー(2014/米)
「Fury」の名の通り、敵意と復讐心とに駆り立てられた凄惨な殺戮シーンの連続は、主人公らによる容赦ない虐殺の対象であるドイツ兵から発せられる「祖国を守れ!」の一語によって神聖化もされる。
主人公側から見た敵味方の区別に関わりなく、戦闘の参加者たちは皆、一方的な虐殺者ではなく、その冷酷な殺戮行為の裏には、そうしないと当の彼ら自身が殺戮の対象となってしまう、という現実認識に基づいてもいる。だからこそ、その過酷な現実に参加することが、聖書の一節の引用によって、イエスが十字架にかけられた犠牲と重ねられもするのだろう。
「十字路」での死闘へ向かうフューリー号は、その乗組員らが口にするように、「戦争、酒、女、何でもあり」の、本来はまったくの反キリスト教的な「家」なのだが、その家が、十字の中心に足止めされ、磔にされるという象徴的な立場に置かれる。なぜなら、戦争は、戦場のさなかに辛うじて残っていた「最後の晩餐」の場、あの束の間の天国のような食卓にも、土足で「戦争」の現実を踏み込ませていくのだから。復讐、或いは正義というものが、その敵たちと同じような獣性への同化を強いるということ。まったく戦争向きでなく、その現実も知らなかった新兵の変化を通して描かれるのは、そうした戦争の本質だ。
非常にクリント・イーストウッド的なテーマを抱えた映画だが、イーストウッドなら、あの曳光弾はやらなかっただろうな、とつい考えてしまう。あれのレーザービーム感によって、戦争の凄惨さが一気にアニメチックに緩和されてしまうのが珠に瑕。まあ、単純に戦争映画として燃える要素にも溢れた映画ではあるので、そうした浮かれた気分で観ようという気持ちを、曳光弾がさらにいや増す効果はあるんだが、それは果たして良かったんだかどうなんだか。
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