[コメント] ジョーカー(2019/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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世の中には笑えないことが多い。だが、アーサーには笑えないことなどない。彼には、最初から笑いがビルトインされているからだ。
すべての人は救われる。なぜなら、すべての人が救われなければ仏にならないと願をかけた弥陀(みだ)は、阿弥陀仏になってしまっているのだから。そのように親鸞は悟り、阿弥陀仏を信じれば、悪人さえも極楽に行けると説いた。おなじみ鎌倉仏教_浄土真宗_悪人正機説である。
どんな笑えないことも、悲劇ではなく喜劇なのだ、なぜなら、自分は笑うに決まっているから。そのことに気がついたアーサーはジョーカーになった。悟ったアーサーは暴徒達にまつりあげられる。地獄絵図だ。
構造を一(いつ)にする阿弥陀仏とジョーカーは、なぜそれぞれが誘う先が、極楽と地獄に分かれてしまうのか。
論理的には、両者の違いが答えである。構造は同じである。違いは、「救い」か「笑い」かだけである。
『ジョーカー』では、この「笑い」がキーとなる。 アーサーの笑いは、主体と切り離されている。笑いたくて笑う笑いではないからだ。それは、個人の笑いではなく、社会に浮遊する笑いだ。だから、その笑いは、匿名の面を求めた。アーサーの笑いが、笑われるための匿名の面=ピエロの面と結びついたのは必然なのだ。
ピエロの居場所は本来はサーカスだ。サーカスが街に放たれたとき、街は地獄絵図と化す。
このことは、現代的な意味を持つ。本作の舞台は、1970年代末〜1980年代初頭とおぼしきゴッサム・シティだが、それは2019年のNYの寓意的表現に他ならない。セピア色のゴッサム・シティは、現代の地獄の戯画である。
かつてローマの市民は、パンとサーカスで愚民に堕した。市民革命を経た現代人は、マリーアントワネットの教えに従って、パンの代わりにケーキを食えるほどに「豊か」(資本主義の発展でケーキは安くなり貧者でも口にすることができる、特に日本のコンビニのケーキは安くて美味い)になり、自分がサーカスのピエロになった。
主体を離れた笑いは、世界を地獄に引きずり下ろす。ただサーカスを見るだけではなく、自分がピエロになってしまえば、地獄も楽しい。
パンとサーカスは受け身だが、ケーキとピエロは主体的な選択に偽装されている。地獄へと誘うジョーカーの笑いが、主体と切り離された笑いだと気づけば、それは明らかだ。だが、モブ(群衆)たるピエロたちはそれに気づくだろうか?
可笑しいから笑うローマの愚民から、笑えるから可笑しいはずだと自己認識する現代の大衆へと、時代は転換(スイッチ)していった。マレー・ショーで、ブラウン管の向こうの視聴者に笑いを促すために、「Applause(拍手して!)」の表示でスタジオの観客が笑い拍手するシーンは象徴的だ。そしてこのスイッチこそが、地獄の始まりのスイッチなのだ。
主体を失った笑いの招く地獄を回避するためには主体を取り戻すしかないのだが、化粧という主体的行為によってピエロになる者にいざなわれるのは、マスクをかぶってピエロになる者たちなのだ。マスクをかぶる行為はどこまで主体的行為なのだろうか。「Applause」に呼応する人々と違いはあるのだろうか。
自らを主体的な行為者と認ずる者は、その主体性が偽装であるか否かの問いを立てることはない。南無阿弥陀仏が極楽への切符となっていたのは、念仏の力ではなく、唱える者の主体性がゆえだったためだろう。天は自ら助くる者を助くは、自力本願ではなく他力本願ゆえなのだ(手にした力で救いを得るのが前者であり、自己の外からしか救済がやってこないのが後者だから)。
本作『ジョーカー』は、富者=「殺される側」、貧者=「殺される側への創造力のない虐げられた暴徒」という二元論的な図式で描かれている。
殺される側への創造力のある者は、ピエロになれない。次作がもしあるとしたら、ピエロにもなれない貧者の物語を主軸にすべきであろう。二元論はもういい。二元論の出口は、二元論を立てた段階で決まってしまうからだ。
ひょっとしたら、現代の救いは、バットマンではなく、ロビンにあるのかも。そう思った。
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