[コメント] ノマドランド(2020/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)。キャンピングカーで生活する人たちの光景は今や多くの国の映画で観られるものだ(例えばダルデンヌ兄弟)が、やはり本家アメリカ、半世紀前のヒッピー映画の幾つかが想起される。70年代ヒッピーも、あれは遊んでいたのではなくて、ベビーブーマーが路上にあふれ出た結果だった(米のベビーブーマー世代のドロップアウトした白人中産階級は150〜300万人、ヒッピーのコミューンは1971年時点で3千もあったらしい)。そして半世紀を経て、ヒッピーは高齢化した。本作でもベトナム帰還兵の語りが含まれる。映画でヒッピーとは確か一言も発せられないが、ヒッピーを想起せずに観るのは困難だ。
映画はひとつの意見で事象を纏める意図は持っておらず、肯定否定いろんな見解が重層的に積み上げられている。製造業不況、社会から見捨てられた老人たちの否定面を的確に捉えている一方、ヒッピー的な何か、ドゥルーズのノマドロジー、柄谷行人の遊牧民のような肯定面も示そうと試みている。だから見る人の視点により読み取られるものが違うのだろう。
妹宅に寄り、たまたま同席した、不動産投資について雑談する旦那衆にマクドーマンドは喰ってかかる。「人に借金までさせて土地を売るの?」。座は白け、妹は彼女をフォローする。「開拓者であるのはアメリカ人の血よね」。しかしこのフォローも外しており、座はシラケる。だって土地は綿密に登記されており、一攫千金の開拓者の時代ではない。不法駐車の指摘に怯えて警察から逃げる毎日だ。しかし希望はある。彼女たちはアマゾンの配送所や国立公園の清掃班に勤める。「年金じゃ暮らせないし、仕事が好きなの」と云う。彼女らは貧困ビジネスの餌食になってもいるが、それを自覚して利用し返している。そして自然と一体化する悦びが描かれる。
RTRという放浪者の集会は助け合いを云い、具体的に警察に捕まらない駐車方法や排泄物処理が伝授されている。車に取り付けるソーラーパネルとか、つげ義春好みの石売りのバザーなどとてもヒッピー風な意匠もありつつ、しかしこの集団に宗教色、スピリチュアル色が全くないのが意外だった。キリスト教的な死と復活が見えないのは東洋指向のヒッピーらしく(では『裁かるるジャンヌ』との類似は何だ?)、仏教の悟達に近似するものがあるが、インド人のグルの祈りもなければストリーキングも麻薬もない。
これはつまりヒッピーではない、というべきだろうか。半世紀を経て変容したヒッピーというべきなんだろうか。彼等彼女等は単独で移動する。ヒッピーとは共同生活する人たちだっただろう。集団で移動しないのはヒッピーと対極である。『イージー・ライダー』の諦念は、コミューンで農業が上手くいかないことに起因していた。土地は日照りで干からびていた。一方、ハウス・トラッカーたちは寒い方角に向かう。気候危機に背を向けるというニュアンスもあるのだろう。畑作できる土地などもうどこにも余っていない。
深夜でひとりのハンバーガー屋なんてショットは、ノマド特有ではなくもっと普遍的な光景だろう。ホームレスの夜回りに一度参加したことがあるのだが、彼等は行政施設ではなく、コンビニのイートインを重要な拠点にしている。彼等もノマドなのか。携帯カイロを無言で受け取ってくれた。
コーヒー配る友達づくり、イモの選別工場。マクドーマンドは教養人だ。元生徒に教えた詩を暗唱させる断片が忘れられない。スミスの歌詞入れ墨する男、ニール・ヤング風のフォーク、ホンキートンクピアノの黒人の爺さん。RTR活動の真ん中にいる白髪の老人ボブ・ウェルズは「最後のさよならがないのがこの生き方のいい処だ」と云う。「路上でまた息子に会えるのだ」。この感慨はしかし一般化されはしない。この老人固有のものだ。彼は誰も指導しない。グルではない。
素人が本人演じる役が多いのに演技はとても上手く、ブレッソン的な素人と対極にある。この人たちは、自分について他者について考え尽くしており、表現に演技とリアルとの差異のない次元に到達しているように見える。スワンキーの知的な老婆が印象的。中盤にガンが脳に転移しているがアラスカに行って安楽死すると、ひとり二連のキャンピングカーで出発し、終盤に焚火を囲んだ葬儀が営まれた。一般化できない、彼女固有の放浪の意味があった。
金借りに寄った妹はマクドーマンドに、一緒に暮らそう、「ここは退屈?」と問う。デヴィッド・ストラザーンは自宅に招待してくれて、一緒に暮らそうと誘う。その家族も薦めてくれる。しかしマクドーマンドは旅立つ。その動機には、身についた放浪癖といったものも含まれるだろう。映画はそれも否定しないし、肯定もしない。
そして最後に、彼女固有の事情が述べられる。誰もいない廃採掘場と、鍵もかけられていないもぬけの空の社宅をひとり再訪する。このときこの名優が背中で語るのは、この壁がペラペラの社宅が、彼女の人生にとって唯一の居場所であったこと。ここ以外で、妹や男性と定住生活をやり直すのはもう彼女の心情では不可能なこと、ノマドの生活はここに定住できない事態と一対であることだった。
夫の写真、キャンピングカーに再現された木製の食事スペース、割られて接着剤で直した皿が多弁にその心情を語っていた(クルマの更新をお勧めしてくるディーラーに自分には家なのだと説明する)。だからどんな風光明美な場所も、彼女にはどうでもいいことなのだった。ここにも一般化できない(スワンキーの動機とは全然違う)、彼女固有の放浪の意味があった。そして同時に、四門出遊の故事が思い出された。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (4 人) | [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。