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[コメント] フェイブルマンズ(2022/米)

「映画を撮るということ」を介して家族の姿を描こうとしたのではなく、家族の姿を介して「映画を撮るということ」を描いたものだと思う。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







監督が、自分にとって映画を撮るということはどういうことだったのか、についてキャリアの終盤にきて振り返ってみたくなったのだろうか。なにゆえ自分はカメラを向けて映像を撮ろうとしたくなるのか、そして撮った映像を編集して自分は他人に何を見せようとしてきたのか、とても純粋で誠実な映画論のように感じた。

監督がカメラを覗きながら、フィルムを編集しながら、いままで思ってきたこと、感じたことが、わかりやすくあますことなく語られるのだが、父(現実の世界・生活)と母(空想の世界・芸術)の間で揺れた葛藤がほぼ大半を占める。創造とは文字通り「傷つけて(破壊して)作る」ことであることが、母の生き方のみならず、サーカスにいた伯父、ジョン・フォード監督の台詞でも語られる。芸術、創造することの楽しさ、抑えられないような魅力に憑りつかれるが、それは生活の秩序や自分の大切な家族を壊してしまう。自分の映像作家としてのそれ、母にとってのピアノのそれを見ると、才能とは一種の呪いなのだな、と改めて感じてしまう。

もう一つ後半で描かれる葛藤があって、自分はそこにとても惹かれたのだが、それは映画で何を語るのか、ということ。つまり「それを言えば相手が喜ぶリップサービス(観客が求めるもの)」なのか、「自分の本心(自分が描きたいもの)」なのか、ということだと思う。アリゾナのキャンプムービーで、家族を楽しませるために編集された「本編」と、その本編(フィクション)を「成立させるために」カットされた部分で編集されたもう一本のフィルム。その2つのフィルムが象徴的だ。スピルバーグといえば、娯楽映画の巨匠でヒットメーカーで理屈抜きで面白い映画を量産してきた作家だが、シリアスなドラマは描けないと、その娯楽性の質の高さゆえに批判もされてきた(自分もしたけど)。監督の資質とはいえ、面白過ぎて批判されるのでは葛藤もあっただろう。晩年娯楽作はプロデューサーにまわり、監督としてはドラマに拘り続けたのはそういうことだと思う。自分をいじめるハイスクールのジョックに気に入られるようにと、あえてかっこよく描いたら予想外に当の本人が美化しすぎだとクレームをつけてくるエピソードは、気を引こうとしすぎるあまり、自分を失うまでやってはいけない、という娯楽映画作家としての自戒なのかなと思った。

最後の場面のフォード監督からの訓示は実際に言われたものなのだろうか。巨匠から直接声をかけてもらい、舞い上がるような気持ちでスタジオの外に出る主人公をとらえる構図の水平線は見事にど真ん中を貫いている。いかにも「おっといけね」って感じで慌ててチルトアップするのだが、その構図があまりよくない(前のでよかった)っていうのは、両巨匠の見解の相違なのか。スピルバーグのフォード監督の訓示に対する苦笑が感じられなくもない。しかしスピルバーグとカミンスキーの「カメラに芝居をさせる」技術は相変わらず高いよなぁと感心。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)Pino☆ [*] 太陽と戦慄[*] けにろん[*]

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