[コメント] 上意討ち 拝領妻始末(1967/日)
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誰が述べたか忘れたが、「封建君主の最大の義務は子作りである」みたいなことを指摘した人がいる。君主にとって、軍事とか政治、経済とかやるべきことは一杯あるのだが、どうしても君主がやらなければならないこと、君主にしかできないことは、その子どもをつくることである。そうして子どもをつくってこそ、その国家なり、藩なりの集団が保てるのだそうだ。
この意味で、幕藩体制=成熟した武家社会は、「子作り」による「お家継承」がすべてに優先される社会である。そして根本において、そのことによって成り立っている社会でもある。
したがってそのためにならば、女性の意志だとか恋愛の自由なんてものは、一切問題にもならない。藩主の子作りのためならば、婚約者がいようがいまいが、問答無用である。そんな社会が、一方で社会の安定によって発達しつつあった「近代的自我」みたいなものと両立するわけがない。このことを如実に示したのが加藤剛と司葉子の二人の夫婦であろう。
いよいよ藩の討ち手がかかろうかという屋敷内で、加藤剛が、この後に及んで娘のことより、妻の方が気にかかる、と心情を吐露する場面は、現代では特にどうということもない愛情表現かもしれないが、武家社会にあっては、異例なことではなかったか。
しかしそれだけではない。主家の「子作り」を優先することが、時には、武士の「筋道」にすら抵触するのである。武家社会は武士の「筋道」によって動いている。だからこそ、妻を「拝領せよ」と迫る時には側用人が出向いても、「返上せよ」と迫る時には側用人が出向けない。「筋違い」の上役が出てくるしかない。そして、本来、お家大事の措置であるはずの一連の経過も、「他藩に聞こえが悪い」ことになってしまう。
そのことをさらに痛烈に示したのが仲代達矢の存在感であった。三船敏郎を罪人として討つのは目付けの役目、というもっともな指摘にもしどろもどろにならざるをえない。それでも主家の言い分を通さざるをえない。武家社会、封建制度がこのような矛盾に満ちた体制であることを示した衝撃があった。
これだけでなく、三船敏郎が屋敷の畳をすべて裏返し、さりげなく血のりで滑らないようにするためだ、と言ったり、しびれさせるような時代劇の空気に満ち満ちていた。仲代達矢との武骨な二人の会話のシーンも素晴らしかった。集団で馬でかけるシーンや、一つ一つのそれらしい仕草など、本当に細かいところへのこだわりも感じられた。
傑作というにふさわしい一本。
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