[コメント] 人間蒸発(1967/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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患者の許可なしに執刀してしまった手術といえばいいのか、要は人間をモルモットにしているような行為だと思う。佳江さん自身が偶然の成り行きだと思っている事件が、ことごとく彼女を動揺させるために用意された(しかも多分に虚構がまざった)筋書きであって、思いがけない彼女の心の内をを(隠しカメラまで使って)写しとっている、モルモットになる事への許可なしに。ドキュメンタリーの崩壊以前に、プライバシーが完全に崩壊してる。監督の貪欲な好奇心の追求には恐れを感じずにはいられない。
しかしフィクションとあえて最後に断りをいれながらも、監督の視線は早川佳江さんという生の人物にネチっこく注がれているのは、余りにあからさまに伝わってくる(蒸発の行方なんてどうでもいいみたいだし)。しかし方法論がドキュメンタリーかと言われると、そう言い切れないもがものあるような気もする。そしてやはり、この映画を通してドキュメンタリーというのは何か、ということを考えずにはいられない。
周りが殆どフィクションで固められながらも、おそらく他のどんな手段を使うよりも、思いがけなく佳江さん本人を写しとってしまったという事実。たとえこの映画以上にドキュメンタリー的手段をとった映画があったとしても、カメラを向けられた対象が必ずしもリアルに写しとられているかというと、それこそカメラを向けられた対象がカメラ向けに自身を再編集してしまったり、現実は必ずしも都合よく事件が起こったりしないことを考えると疑わしい。
そこであらためて考えてみたいのは、現実にむけてカメラを回したからといって、それは必ずしも観客に対象がリアルに伝えられているとは限らないということ。そして、対象が十分思惑通りに写しとられてないと分かれば、編集や進行の段階で製作者は何らかの手を加えなければいけないだろう。これがドキュメンタリーという表現なんだと思う。
そして思惑という言葉でも分かる通り、ドキュメンタリーというのは殆どが対象のリアルな姿を写しているように見えて、実は製作者がその対象に対して描きたいことを現実の事物で構築しているに過ぎないことも分かる。ドキュメンタリー=リアルということと、ドキュメンタリーを”製作”するという事は、やはり矛盾していると思うし、本当にリアルに写しとることを意図すれば、大切なのは手段よりも製作者側の中立的な目だと思う。それはリアリズムの領域に過ぎない。
その中立な目とは別に、一つの対象の周りに虚構をばらまいて現実を引き出しているこの映画は、現実を構築して製作者の意図を伝えるドキュメンタリーに対しての、ひとつの痛烈なアンチテーゼとして機能しているようにも思える。ただその手段が”禁じ手”であることには変わりなく、手放しでこの映画を賞賛する気にもなれないってのもある。
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