[コメント] 利休(1988/日)
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30歳の声を聞いてから茶道を習い始めたヒネクレモノのうちのヨメは、圧倒的多数の裏千家ではなく少数派の表千家をやっているそうだが、なんにせよ江戸千家やらナントカ千家やら無数にある中で共通しているのは「千利休を祖とする」ことである。つまり西洋的に言えば、茶道を嗜む者にとって利休は“神”であり、それを変わり者呼ばわりするうちのヨメは“魔女”というわけである。いや、茶道を嗜む者に限らず日本人のほとんどが、「茶道」「わび・さび」こそが伝統的日本文化であり「前衛芸術」とは対極あるものだと思っているだろう。
だが実は「利休こそ前衛芸術の祖」(ヨメの説)だったのである。
なるほど、美術館などで茶器や茶碗などを見ていて、「一体どこから飲むんだ?」的な歪んだ形の織部焼などが高級なのはどういうわけだ?と思っていたのだが、そういうわけだったのか。 利休は、綺麗な装飾の完成された唐物(中国茶器)を嫌い、未完成形の朝鮮の物を好み、その果てに朝鮮から人を連れてきて日本で焼かせたそうである。つまり素朴さや異形の物に面白さを見いだした天才的前衛芸術家だったのだ。
不協和音を響かせたり乱暴に円を描いただけの書や絵画と、歪んだ茶碗や上薬をムラに塗った茶碗は同じだったのだ。無音だったり真っ白なキャンバスだったりに「これも芸術だ」みたいな(屁?)理屈をつけるのと同じ理屈が、朝顔の一輪挿しをはじめとするあの茶室に溢れ返っていたに違いないのだ。(そしてその形だけが現代に残ってしまったのかもしれない。)
考えてみれば、それまでの日本文化の多くは、能などの宗教儀式か中国から渡った仏教文化に支配されていた。その完成された宗教文化(これは西洋でも同じこと)から離れた“和の文化”を初めて生み出したのが利休だったのかもしれない。完成された既成の芸術を壊す事で生み出される新しい芸術。まさにアバンギャルドの定義である。「わび・さび」は「アバンギャルド」だったのだ。
そう考えれば、世界的な前衛作家安部公房と組み続けた勅使河原宏が、これまた前衛芸術家赤瀬川源平を脚本に迎え、当然音楽は武満徹でこの作品を作ったのは必然だったのだ。「異形のもの」を描き続けた監督が「異形のものを愛した者」を描いた作品なのであって、単なる美しい様式美の映画ではない。
余談だが、本作で利休が目指す究極の形は“球”であろうと思われる。おそらく、最後の作りかけの茶室の形は球形なのだろう。異形異形と言いながら球とは不自然かもしれないが、実は自然界に完全な球形など存在しない。完全な“球”こそ究極に美しく素朴な“異形”なのではないだろうか。
さらに余談だが、そんな事とはツユ知らず、「わーい利休様の映画だー」ってんで各種茶道協会(?)が大挙して協賛しているが、それこそ物事の本質を見極めずに形だけでとらえている典型的な例なのではないかと思うのは、私のうがった見方・・・だな、きっと。
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