[コメント] TOMORROW 明日(1988/日)
原爆実験の閃光に米国大統領は神の光を見、大戦ドキュメンタリーのラストを締めくくるキノコ雲に東アジアの観衆は拍手喝采を送る。そして我々は、彼らのように喜べない我々は、どういった態度でこの映画に接すればいいのだろうか?
黒木和雄の「戦争レクイエム」三部作を現在から遡るようにして観た。
総てに共通するのは、作品の大部分を占める平穏な日常の描写である。『父と暮せば』では、そこには登場しない爆雲などの描写にしつこさを感じ、自分としては日常のみを描くのがこの映画の価値だと思ったのは事実である。だが、『美しい夏キリシマ』では日常に挟み込まれる戦争の影に平穏なドラマをねじ上げるものをきわめて現実的に感じ、そしてこの『明日』ではその存在の大きさに瞠目するに至った。
善人しか出てこない長崎の街(もちろん、リアルたるために朝鮮人や欧米人捕虜は「当然のように」差別されるのだが)のドラマは、いずれも結論に辿りつくことなく閃光のなかで無理矢理終止符を打たれる。生き生きとした娘たちや、子供を産み落とした母親の「それから」は存在しない。ラストが「あれ」であることは事前知識として頭にあるのだけれど、その瞬間が早くやってきてくれないことを願う。そのために、話がラストに相応しい魅力のない展開になることすら求めてしまう。
こんな映画は、他にはない。
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