[コメント] 男はつらいよ 寅次郎真実一路(1984/日)
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寅が酔って米倉斉加年の家で一泊した翌日、見覚えのない家を放浪し、壁に掛けられた色紙を見つける。北原白秋「巡礼」の一節が書かれてある。
真実諦メタダ一人/真実一路ノ旅ヲ行ク/真実一路ノ旅ナレド/真実鈴振り思ヒ出ス
説明過剰がときに鬱陶しい当時の邦画には珍しく、この断片について映画は何の説明もしない。まるでフランス映画の謎かけのようだ(多分パンフレットでは解説されていたのだろうけど)。この詩自体も謎めいていて深い。「真実」と「真実一路」の対照関係に凄味がある。ここに書かれていない後段は次のように続く。
二人で居たれど、まださびし/一人になったらなおさびし/真実、二人はやるせなし/真実、一人は堪えがたし
三角関係を多く体験した白秋の心情吐露とも云われるこの詩の額は、インテリの米倉が掛けたものだろう。まるで失踪する米倉の置手紙のようだ。いつ掛けられたのだろう。もしずっと以前からあそこにあったとしたら、米倉はその時からずっと失踪を願望していたことになる。この夫婦の日常生活の描写はないが、毎日残業なのにそれから居酒屋へ行く米倉を見れば、上手くいっていたとは思われない。失踪を知って真っ先に女を疑う大原麗子は、詩の後段を知っていたのだろうか。これも謎かけだ。
そしてこの詩は、まるで寅が老年に悟って書いたのではないかと思えるほど、このシリーズの根本を説明している。額を眺めていた寅が振り返ると、そこに運命のように大原が登場する。本作の彼女の美しさは殆ど異常の域に達しており、まるで寅の妄想の具現のようだ。そして無意識に誘惑の鈴を振る罪作りな妖怪大原(「詰まんない、寅さん」の甘い声の色っぽさよ)との真実一路の旅が始まる。道中、妖怪に煽られた寅の口から「俺は汚ねえ男です」という決定的な一言が飛び出し、なるほど本シリーズは第1作からずっと、身分違いの恋の葛藤を描いて『無法松の一生』の後裔だったのだと膝を叩かされる。
この純度の高さは、白秋詩のパースペクティブがもたらしたものだ。寅になれない米倉と、米倉になれない寅。ふたりは同じ額を正反対から眺めている。階級差について問題になることが殆どなかった80年代でも「結婚差別」だけは依然としてあった。これは左翼映画が全滅した当時、本シリーズだけは人気を博していたのと並行関係にある。本邦の景気の沸点でも松五郎の物語は廃れなかったのだった。
無精鬚のハマる米倉の飄々とした好演はさすが。無銭飲食の寅の勘定を払う最初の件の素敵さが全編を支えている。この夫婦の息子のぎこちなさも印象深く、寅屋で「里の秋」を朗々と歌う件は制作者側は感動させようとしているのだろうが、こちらにはこの子のエリートの子息にありがちな緊張型の歪さが伝わってくる。収束は定型だが定型自体が優れている。地元の支社に転勤させるという大会社の温情を賞賛してもおり、社会に対するかくあれというメッセージとして素晴らしい(当時は会社鬱など話題にもならないワーカホリック称賛の時代なのだから)。
私的ベストショットはラスト、枕木だけの廃線を歩み去る寅と関敬六。モノクロのハリウッド喜劇を強烈に想起させるが、どこまでも鉄道が伸びるアメリカ大陸と比較され、米倉の満員電車とも対比されている。バブル前なのに、もう地方の疲弊が始まっているのだ。夢オチでギララを退治する寅のお守り(大原が忘れ物だと手渡しもする)という重要な小物を後半活用しないのは、もういつものこと。美保純の馬鹿はここでもとても愛らしい。
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