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[コメント] 時計じかけのオレンジ(1971/英)

オレンジは皮を剥かなきゃ中身が見えない。原作という皮をかぶったこの映画も、一皮剥けば見えてくるのはキューブリックのカラクリじかけ。アレックスの最後の台詞を全否定すべく、キューブリックが仕組んだ時計じかけの原作アレンジとは?
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







実はこの映画、まったく好きになれなかった。レイプシーンはあるし、オブジェも卑猥だし、おまけに悪い奴が元通りになるという結末に、嫌悪感が残るだけで何が言いたいのかさっぱりわからなかったからだ。ところがある日、この映画を見てる時にたまたま宅急便が届いたので、画面を一時停止にして中座した。荷物を受け取り戻ってきた私は、その一時停止された画面を見て釘づけになった。そこにこの映画を読み解くヒントが映し出されていたからだ。

それは、映画のラスト直前で、病院で包帯だらけのアレックスが、大臣と共にカメラマンに向かって写真に撮られている場面である。それまで上機嫌だったアレックスが、急に様子がおかしくなり、極端な上目遣いになるアップのカットにご注目いただきたい。(DVDでは133分12〜35秒あたり)この場面でアレックスの額を注意深く見てほしい。画面向かって右、すなわちアレックスの左まゆの上あたりに、一見髪の毛のように見えるが、よく見ると傷跡のメイクが施されているのがわかるはず。私も最初は見間違いかと思って、ブルーレイを買って確かめてみたのだが、アレックスの額にあるのは髪の毛ではなく傷である事を確認した。しかもこの傷跡のメイクが確認できるのはこのカット以外には存在せず、明らかにキューブリックが意図的に隠したものと推測される。ではなぜ彼は傷跡を隠そうとしたのだろうか?それではアレックスの額の傷を切り口にこの映画のカラクリに迫ってみたい。

まず初めに、アレックスの額の傷から導かれるものは脳外科手術、すなわちロボトミー手術である。映画や原作でもアレックスは「医者に頭の中をいじられる夢を見た」と語っていたが、ほのめかすだけで断定はできなかった。しかしこの傷跡で、それが夢ではなかった事が実証されたと言えるだろう。という事は、ラストの「完ぺきに治ったね」と言うアレックスは元に戻ったのではなく、元に戻ったかのようなカラクリを脳外科手術で仕掛けられたという事になるのである。

また、ラストの想像の場面にはキューブリック本人が登場しているが、これが意味するものは「キューブリックという監督の存在=アレックスの想像は演出された映像」という図式である。さらによく見ればこの想像の中心にいるのはアレックスのようでいて、実はよく似た別人である。ここで思い出してほしいのが「おれがいた」というこの映画の最初の台詞だ。それがラストシーンでは「彼がいない」状態に変化している。つまりこの想像には主体であるはずのアレックスはどこにもおらず、このイメージが他者によって操作された偽物であることを証明しているのである。こうしてアレックスは一見、元に戻ったかのように見えて、中身は政府に操られるロボットという、まさに「時計じかけのオレンジ」にされてしまいました、という因果応報の物語として溜飲が下がる結末になっていたのである。ここが原作とまったく違う点であり、ここにキューブリックの意図したテーマが隠されていた。

ところで、そもそも「時計じかけのオレンジ」とは何なのか。イメージ的に考えるとオレンジの皮を一部剥いて中身を取り出し、そこに機械仕掛けを入れて皮を元に戻したもの、となるだろう。それは外見上はオレンジに見えるが、中身はオレンジとは呼べない別のものである。つまり時計じかけのオレンジとは「同じものに見えても中身は別物」であり「中身を入れ替えて自分の思い通りに作り変えること」だったのだ。そしてこれこそが映画独自のキーワードになっていたのである。では「中身を入れ替えて自分の思い通りに作り変える」とはどういうことか。それはズバリ「矯正」である。つまり矯正とは「間違った人間を正しい人間へ作り変える行為」と言えるのだ。そこで「矯正」をキーワードに映画を振り返ると、アレックスはさんざん悪事を重ねた結果、「矯正」されたわけだが、これぞまさに「頭の中身を入れ替えて作り変えられてしまった状態」なのである。

そんなアレックスだが、序盤のウルトラバイオレンスな悪行の数々も、よく見れば「矯正」と同じ事をしていた、という見方も可能である。彼が襲った人物を振り返ってみると、老人、対立する若者のグループ、平和に暮らす夫婦、そして殺された老婆であった。若者たちのグループはともかく、それ以外の人々は一見なんの落ち度もないように見える。しかし彼らをキリスト教的な視点で見ると「泥酔」「金持ち」「色欲」という罪を犯しており、彼らもまた罪人であったと言えるのだ。そう考えるとアレックスの行動も違った意味合いを帯びてくる。彼は「間違った人々を正しい人間に作り変えるために罰していた」とも受け取れるのだ。つまり彼はただの不良ではなく、世の中の間違った人々を「矯正」し、教えを説いて回るという、はた迷惑な伝道師だったのだ(笑)彼はお金持ちの奥さんをレイプしているが、それは彼が女に飢えた強姦魔だからではなく、あくまで罪人を罰する行為だったと言えなくもない。(現に彼はセックスに不自由しておらず性欲は女の子をナンパして解消している)まあ、やってることは強姦魔と変わらないとしても、その中身はまったく別物であり、ここにも「時計じかけのオレンジ」という「同じものに見えても中身は別物」というキーワードが当てはまる。

そんな彼も最終的にはロボトミー手術で完全に「洗脳」されてしまうのだが、それは映画独自の結末であり、原作ではそうはならない。原作ではアレックスがロボトミー手術を受けた確証はなく、彼の暴力性も時間とともに後退し、結局は「若気の至りでした」的に収束する結末を迎えていた。ではなぜキューブリックは原作にもないロボトミー手術による「洗脳」という結末に改変したのだろうか。

この映画の前半を振り返ると、さんざん人々を「矯正」して回ったアレックスの姿は「強者」であり、それは暴力という「力が支配する世界」だった。ところが後半になると立場は逆転し、今度は自分が「弱者」となって「矯正」されるのだが、それはキリスト教という「善悪が支配する世界」と言えるのだ。つまり前半では「善悪ではなく強者が弱者を矯正しようとする世界」であり、後半は「強弱ではなく善が悪を矯正しようとする世界」という二つの価値観を描いていたのだ。そしてその両極端を提示することで「何者かに洗脳された価値観ではなく、何が正しいかを決めるのは自分自身」という自由意思を訴えているように感じられるのだ。

また、ロボトミー手術は「間違った人間を正しい人間へ作り変える行為」の最も悪い例だろう。間違いを正すのは一見正しいように思えるが、人の価値観は多様であり、何が正しいか、間違っているかは人によって違ってくる。つまり「矯正」とは「間違いを正す」というよりは「自分の価値観を相手に押し付ける行為」とも言えるのだ。これを当時の時代背景に当てはめて考えると、真っ先に思い浮かぶのはベトナム戦争である。この戦争は「ベトナムを共産主義という間違った国にならないように矯正するための戦争だった」という見方もできるのだ。映画の中に出てくる牧師は「選択の自由がなければ人間とは言えない」と語っていたが、これは国に対しても言えることだ。キューブリックが原作を変えたのも「ベトナムに自分たちの価値観を押し付けるな」というメッセージだったのではないだろうか。思えばレイプされたお金持ちの家にいた奥さんは赤い服を着ており、他人の家に押し入り「アカ」をレイプするという行為は、まさにベトナム戦争そのものだったように感じられる。レイプシーンや他の暴力シーンも「自分の価値観を相手に押し付ける行為」の比喩と考えれば、もうこの映画を嫌悪する理由は私の中には残っていなかったのである。

おそらくキューブリックがアレックスの傷跡を敢えてわかりにくくしたのは、「一見原作に忠実な映画化に見せかけて中身は別物」という、まさに「時計じかけのオレンジ」の構造を体現するためだったと言えるだろう。しかし原作をいじるという行為は、言わばロボトミー手術と同じである。それをあからさまにやってしまえば、それは「自分の価値観を相手に押し付ける」という「矯正」と同じ事になってしまう。そこでキューブリックは傷跡を目立たなくすることで「何が正しいかは自分の頭で考えろ」と、観客へ自発を促す問いかけを残したかったのではないだろうか。そう考えることで、私のこの映画に対する評価は180度変わっていったのである。

映画のラストでアレックスは「完ぺきに治ったね」と喜んでいるが、それは他者によって洗脳されてしまった頭が勝手に考えてる事で、自分自身が考えたことではない。洗脳された事にすら気づかず無邪気にはしゃぐ彼の姿は愚かであり哀れでもある。と同時に考えさせられる。それは情報過多な現代に生きる我々とて他人事として笑えない環境に置かれているからだ。一見自分の頭で考えた事のようでも、実はネット情報の刷り込みによる情報操作という「洗脳」だった・・・なんて事も十分ありうる話なのだ。

最後に、この映画全体のイメージを色で言うと「白」の印象が強く、タイトルの「オレンジ」より「白」が強調されてるように感じられる。「白」という色は、何色にも染まってない唯一の色と言えるだろう。つまりこの映画は「何者かの色に染まった頭で考えるのではなく、何が正しいかは先入観のない真っさらな自分の頭で考えろ」であり、これこそがこの映画の本当のテーマのように感じられた。暴力とセックスとファッションという「派手な色彩」ばかりに目を奪われがちな映画だが、それはオレンジの表面的な皮にすぎず、一皮むけば「無垢な色合い」の真摯なメッセージが見えてくるという二重構造の映画だったのだ。そして、そんな二面性のあるカラクリこそ、キューブリックが仕掛けた原作アレンジの正体だったのではないだろうか。このような結論に至ったことで、この映画に対する私の評価も嫌悪から愛情へと矯正されたのであった。それはもう「完ぺきに治ったね」ってくらい完璧に。(2013.01.19)

<時計じかけのオレンジQ&A>

Q:なぜこの映画は聖書をなぞっているのか?

A:聖書を踏襲してはいるが、やってる中身はまったく別という「時計じかけのオレンジ」の構造を体現するため。またアレックスはある意味キリストの真逆のような存在、すなわち悪魔的な存在であり、そんな悪魔のような彼さえも「矯正」してしまう人間のエゴが物語のベースになっている。ちなみに劇中に登場する神父は一見まともに見えるが、罪人をキリスト教の教えで「矯正」しようと「自分の価値観を相手に押し付ける」人物であり、彼自身もまたキリスト教に「洗脳」された人物と言え、聖書の教え自体も「洗脳」と同じ事であるかのような描き方である。

Q:劇中にたくさん出てくる白いオブジェは何を意味しているのか?

A:ラストのアレックスの姿を見てほしい。包帯と石膏で固められた彼はまさに生きるオブジェであり、自由を奪われた人間の比喩だったと思われる。

Q:原作には蛇が出てこないのに、なぜキューブリックはわざわざ蛇を使ったのか?

A:一つは前述のように彼が悪魔的な存在であることを表わすため。もう一つはラストのアレックスの姿を見てほしい。包帯と石膏で固められた彼はまさに手も足も出ない「蛇状態」である。食べ物も大臣に食べさせて貰っており、その姿はまさに大臣のペッ トのよう。映画前半で蛇をペットにしていたアレックスは、ラストでは自らが蛇になり、大臣に飼われる身に成り下がったのである。

Q:なぜアレックスは腕に目玉のアクセサリーをつけているのか?

A:まずはこの映画のポスターを思い出してほしい。Aを型どった枠の中にアレックスがナイフを持った手を突き出してるDVDのジャケットである。このイラストを図形で捉えると、三角の頭に目玉と牙がついているように見えないだろうか。そう、このイラストは「蛇の頭」をデザインしたものだったのだ。これによりアレックス=蛇=悪魔的存在という図式をより強調しているのである。

以上、長文失礼いたしました。

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