[コメント] 戒厳令(1973/日)
戒厳令という例外状況、暴力に魅入られつつも、怖れ、忌避する北。朝日平吾の血塗れの服の扱いの如く、血腥い事は他人に押しつけ、自らは「連絡しただけ」の立場に居、永遠に「十数える」事しかできぬ革命家。全てを観るだけの存在=天皇を夢見た男。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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北は、彼の思想に導かれた青年将校たちが、遂に暴力を発動させた状況に於いてさえ、彼らを、暴力によって事態を動かす「革命軍」ではなく、「正義軍」と呼ぶべきだ、などと言う。暴力に荷担することを恐れながらも、人が自分を恐れないということをも、恐れる――五・十五事件を北に「連絡」されながらも、西田から下された指令に従えなかったあの気弱な将校は、自らの存在を北たちに無視されたが故に、北が二・二六の青年将校たちに送った「連絡」について、検事たちに「連絡」する。これが、刑場に向かう北に検事が云う、「彼は貴方の一番の弟子だったのかも知れない」という言葉の意味だろう。自分の弱さを罰する為に、自らの腕に剃刀を当てる北の行為は、自らの血を、ほどほどに、取り返しのつかないほどではなく、流すことで、血と暴力と死の恐怖への免罪符となしている。北の妻が、この行為によって却って北がますます弱くなっている、と指摘するのは正当であり、最後に彼が「天皇の慈悲」によって「つまらない策謀家」として血を流して死ぬ終幕は、一見、何か不条理劇のようなこの映画に一貫する論理の必然的な帰結である。
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