[コメント] ゴジラ対ヘドラ(1971/日)
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DVDを字幕で見ていたら気になる台詞に出くわした。ヘドラの被害を放送するテレビ番組のシーンで、一般市民が「自衛隊はなにやってる!」「政府はなにやってる!」と口々に不満を叫ぶ場面に次のような台詞が現れた。
「資本家はなにやってる!」
音声だけでは他の声に重なって聞き取れない台詞で、怪獣映画には耳慣れない台詞に面食らった。と同時にこの監督の意図したことがはっきりとわかった台詞だった。それは陸に上がったヘドラが工場に現れる場面に象徴されていた。怪獣というものは普通は町を破壊しに来るものだが、陸に上がったヘドラは工場を破壊したりはしなかった。むしろ煙突の煙を吸い目を細めて悦に浸る姿はまるで工場との共存関係を象徴するような演出だ。そこに先ほどの台詞を加えて考えると、「ヘドラとは工場という公害を出す企業に癒着し、甘い汁を吸う資本家の集合体」という答えが導き出される。
資本と資本が合体吸収を繰り返し、巨大化した資本は富を持たない一般市民を苦しめ、ついには骨になるまでしゃぶりつくす。なんという搾取の構図だろうか。もはやこれはタルコフスキー並の体制批判と言っていい。そしてヘドラは大量の車を飲み込んだり、金属製品を腐食させたり、石油タンクを炎上させるが、これは資本主義における大量消費の暗喩であり警告でもある。これはもうロメロばりの大量消費社会に対する批判と呼んでいいだろう。
ところでヘドラの設定だが、ヘドラは公害の申し子なのは間違いないが、公害によって変形してしまった地球生物ではない。ヘドロを好む宇宙の生命体という設定により、公害で被害を受けた者のしっぺ返しという縮図を否定しているのがわかる。
もちろん公害を生み出したのは人間の責任だ。しかし公害を生み出した真の原因は、公害を出してでも利益を追求しようとする欲深さなのだ。そして何もこれは公害だけに限ったことではない。利益優先で安全性を軽んじたことでどれだけ被害を被った人がいるだろうか。そんな被害を受けた人々の怒りの気持ちを代弁してくれたのが今回のゴジラなのだ。ゴジラが戦う相手とは、資本家・・・というよりは、貪欲に富を追い求める資本という実体のない怪物だったと言えるだろう。そう考えると、富士の裾野に集まりヘドラに松明を投げた若者たちの姿は、ウォール街でデモする若者の姿に重なり、ヘドラを倒す役割の自衛隊のやる気のない攻撃(酸素弾ってなんだよw)も、体制に影響力のある資本家に対して攻撃できないという裏事情を感じさせる。
なにも資本主義が悪いというのではない。資本がもたらす利益に目がくらみ他者のことを考えない利己的な心こそが怪物なのだ。ゴジラはそんなどろどろした人間の情念の固まりであるヘドラに苦戦する。ゴジラだけでは倒すことができない怪物を倒すのは、結果的に博士の考案した装置であり、それはある意味博士の持つ正しい心の勝利であったと言えるだろう。人の利己的な欲望という醜い心に打ち勝つのはやはり人の心でしかなく、それは損得に関係なく正しいことを成そうする汚れなき心なのだと解釈した。
ラストの「そしてもう一匹」というのは、「自分の心の中が欲望というヘドロで汚れていたら、また新しいヘドラは生まれてくる。ヘドロとは人間の心に溜まった汚れであり、それをなくすことができるのは美しい海のように澄んだきれいな心なんだよ」という監督のメッセージと受け取った。そしてそんな高尚なメッセージはヘドラの造形だけに見とれていた当時の私に伝わるはずもなく、40年の時を経てようやく今日気づいたという大人の怪獣映画であった。(2011.11.18)
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