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[コメント] パルプ・フィクション(1994/米)

キャラを状況に放り込んだらどうなるかという純粋興味が最高の果実を結んでいる。サミュエルの圧倒的滑舌を筆頭に、会話劇のテンポは最早ミュージカル。サリー・メンケの編集も流石。戦禍をくぐった時計を巡る「英雄的」挿話を与太話(コーエン的な無常もない、単なる与太話)に変換する逆説的な真摯さや、駒と時制を統制して「我こそは神」と叫んでしまうあたりも、やっぱりタラちゃんカワイイわ、と思う。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)を狙った至近距離の弾が悉く外れた現象について、「神の奇跡だ」と感銘を受け「敬虔な気持ち」になっているところを、ヴィンセント(トラボルタ)が「奇跡じゃねえ、うまく言えねえが奇跡じゃねえよ」というくだりが特に面白い。

弾痕を指さしてジュールスが「神の力が介在したんだ、わかるか?」と繰り返すたびにメタな面白さに吹き出してしまう。あくまでジュールスは「神」 を端的にキリスト教的神として語り続けるが、もちろん、観客の目には「脚本」が天の配剤という仮姿で起こした現象に他ならない。「神の奇跡」 でなく監督の力=必然であることを(メタに)看破したヴィンセントが、のちにバチが当たったかのように(監督の配剤で)殺される、という流れ。(「信仰」を口にするジュールスは、少なくとも劇中では存命している) その「神」が「撮影所のそばに住んでいるぼんくらのジミー」としてくたびれたガウンを着て登場するくだりが相変わらずの照れ様でかわいい。

終盤、カフェの強盗を無血で鎮圧し、どこか誇らしげに銃を納めてカフェを去るジュールスとヴィンセント。「監督=神」の「子=導く者=脚本」に資した「羊飼い=キャラクタ」としての誇り。何が面白いってうまく説明できないのだが、とにかく純粋に駒を操作することに燃やされるタランティーノの執念や矜持がもっともあらわれた作品だと思う。映画の奇跡は起こるものではなく起こすものという職人としての自信の表明か。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)3819695[*] ナム太郎 ぽんしゅう[*]

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