[コメント] めまい(1958/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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初っ端の、蠱惑的なタイトル映像に用いられた幾何学模様から始まって、マデリン(キム・ノヴァク)の結われた髪の渦、その彼女(正確には、マデリンに扮したジュディ)が見つめる肖像画に描かれたカルロッタの髪の渦、彼女がスコティ(ジェームズ・スチュワート)と一緒に散策する森に置かれた切り株の年輪、鐘楼の螺旋階段、と、渦巻き状の形態が反復される。序盤の尾行シーンにしても、スコティ視点で捉えられたマデリンの車が画面左へと曲がっていくのに合わせて、観ているこちらの目線も渦を巻く感じになる。
また終盤、事の真相を知ったスコティが、怒りを隠してジュディを再び鐘楼へ連れて行くシーンでは、一度目のシーン(この時は「マデリン」として連れて行ったのだが)と同じく、路の両側の樹々を見上げるカットが挿入されている。「見上げる」という行為自体もスコティによって全篇に渡り反復されるし、後半のサスペンスは、彼がジュディに「マデリン」の面影を求める、つまり亡き恋人の反復を求める執着心に因っているのだ。
そんな本作に於いて、僕が今回再見して目を引かれたのは、「緑色」というモチーフの反復だ。この色に注目させられたのは、後半部の或るシーン。スコティが、マデリンを初めて見たレストランにジュディを連れて行った後、共にジュディの部屋に戻るのだが、窓から緑のネオンの光が入る暗い部屋の中、スコティが見つめ、言葉を交わすジュディは、黒い影となり、横顔の輪郭だけを浮き上がらせている。この、表情も見えず、影絵のプロフィールとなり、半ば匿名性に落ち込んだジュディの姿は、マデリンの外形の反復を求められ続ける彼女に相応しい姿だ。ラスト・シーンでジュディが墜落する原因となったのも、突如現れた黒い人影なのだが、これはまさにマデリン=カルロッタの亡霊に他ならないだろう。
このジュディが遂に観念し、マデリンの姿になることを受け入れるシークェンスでの、ジュディが美容院で髪の色や化粧の仕方までマデリンに戻されていくシーンは、あたかも整形外科の施術のように、ジュディの身体が切り刻まれているかのように感じられ、殆ど凄惨でさえある。スコティが待つ部屋に戻ってきたジュディは、最後の抵抗として髪の結い方だけは「似合わないから」と崩しているが、スコティの意に従って、バス・ルームで結い直す。ここで再び「緑」。そのバス・ルームのドアは、例の緑の光によって染め上げられている。観客が、スコティと同じ時間を待たされた末、遂に「マデリン」と再会するその瞬間、マデリン=ジュディの姿は、緑の光の中に、亡霊のようにおぼろげに現れるのだ。
ここで遡行的に、「緑」のモチーフに気づかされる。というのも、スコティがジュディと「初対面」するシーンでは、彼女が着ていたのが緑の服。いや、それ以前に、スコティが尾行していたマデリンの車の色が緑だったのだ。スコティの執着心の暗喩としての緑。
人の身体を、「緑」一色に染め上げるということ。マデリンの墜落死を見せられたスコティが見る幻覚シーンでは、彼自身の姿が一色に染め上げられたサイケデリックな画が何度も現れていた。光・視覚による、人格の変貌。スコティもまた、マデリンの墜落死によって、後半部の狂気じみた人格へと変貌してしまうのだ。
スコティは、目の前のジュディが「マデリン」のことなど何も知らないと思い込んで、マデリンの面影をジュディに求めるのだが、洋服店のシーンでの「君にスーツを買うだけだ」という言葉の裏にあるスコティの欲望を、ジュディは十二分に理解している。この齟齬故に、自らの欲望をジュディに対して露わにするスコティ。後半部の狂気はそこにある。ジュディが、マデリンと同じスーツを着せられることを拒む箇所で、言い合う二人は鏡の前に立っている。鏡の前で、自分が自分でなくなる恐怖に抗うジュディ。あのスーツの灰色も、僕にはカルロッタの墓石の色と感じられる。
スコティの部屋で、ジュディが「マデリン」になることを受け入れるシーンでも、キスしようとして、やはり唇は避けてしまうスコティ。ジュディに対し「暖炉の傍に行こう」と勧めて、そうするのだが、それは、彼女の為にクッションを放ってやる動作も含めて、マデリンと初めて知り合いになったシーンの反復なのだ。
ジュディが死という結末へ向かう最後のシークェンスでは、彼女は黒いドレスを身にまとっている。スコティと食事を共にする喜びを味わおうとしている彼女が、既に喪服を着てしまっていることの哀しさ。
スコティが独り暮らしをする家の前の柵が中華風のデザインであることや、彼がマデリンと口づけを交わすシーンで、中国の諺だと言って「一度救った命には、永遠の責任がある」と告げる台詞、またカルロッタがスペインの女性であることなど、二人には、「いま、ここ」から離れた世界を暗示するものがある。
ひとつ、引っかかるシーンがある。マデリンが徘徊する(振りをする)中で立ち寄るホテルの老女主人は、スコティの警察手帳(退職時に返却しなくて大丈夫なのか?贋物?)を見て「お客のプライバシー」の開示に同意したはずなのだが、スコティがホテルの外から窓に見つけたマデリンを、女主人は見ていないという。マデリンはどういう経路で部屋に入ったのか、或いは女主人が、自身で気づかぬ内によそ見をしていたのか……などという、現実世界なら幾らでも立てられる仮説などどうでもいい。脚本上の見過ごしでないとしたら、この説話論的に説明のつき難い場面はやはり、スコティが追っていたのは亡霊だった、というテーマを補強するものなのかもしれない。
それにしても、ラブ・ストーリーとサスペンスがここまで完璧に融合した例を、僕は他に知らない。この二要素の融合というと大抵、或る危機的状況なり謎解き作業なりを共にし合った男女が、当然のようにベッドをも共にする、という惰性的なプロットが採用されていて、その種の映画は腐るほどあるのだが、この『めまい』は、男が女と恋に落ちるという出来事そのものに、本質的に備わっているサスペンスを抽出している。即ち、相手を自身の理想のイメージで、優しく、だがその実、残酷に包み込む者と、素のままの自分への愛を求めながらもその為の方便として、相手の理想像を演じる行為に自らはまり込んでしまう者との葛藤。
ラスト・シーンに於いて、鐘楼の階段でスコティがジュディを詰り、「あいつにも、マデリンの格好や所作を仕込まれたのか?」と執拗に尋問する様は、単に騙されたことへの怒りにとどまらず、ジュディにマデリンの模倣をさせるという行為自体がマデリンの夫・エルスター(トム・ヘルモア)の反復に過ぎなかったことへの憎悪、つまりは嫉妬に駆られているように見える。
そしてまた、「存在しない女」を共に虚構していく、という意味では、映画監督と女優の共犯関係とも相通ずるものもあるだろう。亡霊を創造する機械としての映画。
ただ、演出的にも脚本的にもあまりに整然と計算されているが故に、どこか人工的な不自然さを感じさせられる点があるのもヒッチ風。スコティとマデリンが口づけを交わすシーンで、キスする瞬間、背景の波が大きな音を立てて岩にぶつかる演出が二度も為されているのには、ちょっと笑ってしまいそうにもなる。ラスト・シーンにしても、鐘楼でジュディが落下したのを目の当たりにした老修道女は、間髪おかぬタイミングで十字を切って、鐘を鳴らすのだが、シーンの緊迫感を高めるための演出とはいえ、修道女に人間的な動揺なり何なりを示す暇さえ与えないスピーディーさには、やはり違和感も覚える。いかにも「あなた落ちる人、私、鳴らす人」といったテキパキとした動き。そこには勿論、完成された様式美も感じるのだが、同時に滑稽さをも感じさせられてしまうのが悩ましい。
最後に、バーバラ・ベル・ゲデス演じるミッジの存在に言及したい。前半部は、彼女の存在と、スコティとの遣り取りが作品にユーモアと親近感を与えているのだが、彼女が、カルロッタの肖像画に模した自画像をスコティに見せるシーンでは、眼鏡をかけたままの姿を描き込んでいるというユーモアがそのまま、眼鏡の異物感という形で、ミッジは絶対にカルロッタ=マデリンの位置に在ることが出来ないということを如実に示しており、ミッジの哀しい立場が痛切に感じられる。そしてそれはまた、観客が、軽妙なユーモアを味わいながら画面を観ていられる余裕とは、別れを告げねばならないことをも実感させられるシーンでもある。ミッジの存在は、物語全体に於ける大事な句読点になっているのだ。
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