[コメント] 気狂いピエロ(1965/仏)
引用の意味が分かれば分かるほど陳腐さが際立つ。
哲学的でも詩的でも無いように思う。
エクリチュールとして書かれた言葉をパロールにすることがどれほどその言葉の価値を下げるか、ゴダールなら分かっていてもよさそうだが。(『映画史』では、引用は引用として、つまりひとつのイマージュとして発話されるが、ここでは現実の一部になっているところが問題。極論すると『映画史』は『映画』ではない。だから自分としてはOK。)
言葉がその詩的表現力を発揮するのは、詩や歌において最大であり、映画の本質は言葉ではなく映像にあると思う。いや、正確には運動か。
また、言葉という関連でいえば、映画は「対話」という重要な表現が可能である。そういういう点では、映画はすばらしい能力を持っていると思うが、それを実現している監督は少ない。そしてゴダールもしかりである。それに、映画における対話の表現が重要なのは、その<持続性>つまり<間>であるから、結局は運動と同じ。言葉そのものではない。
そういった点も含め、ざいあす氏の「映画はスタイルではない」という意見に同意。構造化できない運動の相互連関を表現できることに映画の特長の一つが在ると思うし。
一方で評価されているゴダールの映像だが、彼が映像的に特に優れているとは思えない。悪くもないけど。トリュフォーのが上。まあ、この辺は趣味の問題、といって解決してしまうしかない自分が嫌なんだけど。
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