[コメント] 勝手にしやがれ(1959/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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追われる身のミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)が横切る画面に見える『地獄へ秒読み』のポスター。ハンフリー・ボガートのポスターの前でミシェルが「ボギー……」と呟くカットの表情。監督ジャン・リュック・ゴダール自身による、警察への密告。警察から逃れたミシェルがパトリシア(ジーン・セバーグ)と映画館に入って口づけするカットで、上映中の映画の台詞が二人の恋の台詞を代弁するように介入すること。映画への愛と共に、映画のような恋や活劇を「映画」の引用としてのメタフィクションとしてしか描けないゴダールの、「映画」への個人的な追悼の念が滲んで見える。
ジャンプカットの多用が、省略によって息せき切って結末へ向かう一方、警官殺しとして追われるミシェルは借金の取立てとパトリシアとの逢い引きに夢中のモラトリアム状態。そこには何か、「切羽詰った停滞感」とも言うべき空気が漂う。
ミシェルが訪ねてきたのを「Ooh!LaLa」と笑顔で迎える黒髪の女。売り子として働くパトリシアの、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」という声。ミシェルが運転する車の助手席に居るパトリシアの、髪を極端に短く刈った頭を後方から捉えたカットを矢継ぎ早に挿入し、ミシェルが彼女の美しさを讃えるシーン。ミシェルの、その厚ぼったい唇を基準にして造形されたかのような独特の顔貌。彼が、吊り目ぎみの形状をしたサングラスをかけ、新聞紙越しに警察の様子を窺うカット。改めて観てみると、意外なほどに純粋に目と耳を楽しませる映像が多い。前回観たのは随分前だが、記憶に残っているカットが多かった。
ミシェルとパトリシアの二人で道路を歩きながら話す長回しカットのパースペクティブも心地好い。この構図は、最後に撃たれたミシェルがよろよろと歩く姿を後方から捉えたカットでも反復される。パトリシアが入った新聞社に後から刑事たちが入って来て彼女に聞き込みをするシーンなどでの、カメラがグルッと一回転することによってワンカット内でシーン転換が起こる演出の妙味。パトリシアの部屋の窓から入って画面を飽和させる外光。
「女は八日後ならすることを八分後にすることは嫌がる」などの箴言めいた台詞もゴダールらしい。一見するとまるで異なる印象の『映画史』とも、引用や編集のリズム等、手法的には相通ずるものを感じる。ミシェルとパトリシアが会話するシーンでパトカーのサイレンがけたたましく介入してくるところなど、台詞に雑音を被せることの多いゴダール調が既に覗いている。
この映画が、自由奔放なカッティングを行なっている一方でどこか躍動感がもう一つ足りないように思えるのは、ゴダールが、役者のアクションを的確に捉えた上でそれに合わせて編集、というよりは、ジャンプカットで時間を飛ばすことによって、アクションというよりはイメージの繋ぎでインパクトを生もうとしたせいだろう。退屈ではないが、どうもこれは活劇ではないような気がする。イメージとしての活劇。つまり、距離を置いて見られた活劇。
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