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[コメント] 8 1/2(1963/伊)

「我々の心から唇へと上り来る詩句は、実は、記憶からやって来たものなのだ。(…)未来とは過去が人間の眼に見せる錯迷した相貌に過ぎない」(サルトルのマラルメ論草稿)
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







劇中の「マラルメは白紙を讃えた」という台詞の暗喩のような、全篇に渡る、白を基調としたモノクロ映像の、精妙な陰影、空白の美の完成度!監督グイドを苛む、愛も夢も記憶も癒してくれぬ空虚感は、カトリシズムとの砂を噛むような空しい対話にも表れている。

映像と音楽の見事さに、初っ端からただただ圧倒され続けたのだが、その見事さも延々と同じテンションで続けられると飽きも来るもので、正直に告白すれば、中盤辺りでちょっと睡魔に襲われてしまった。が、全篇観終えてしまうと、この映画の場合はその退屈さすら作品の一部なのだと感じさせられる。

冒頭、空中を自由に飛び回っていたグイドは、製作者たちに足に縄をつけて引きずり下ろされそうになり、夢から覚めるが、最後は、宇宙船の打ち上げ場として組まれたセットの前で、映画監督として沈没する。

この、他のフェリーニ作品にも見られる、天への上昇に託された絶望的希望は、海にそれが託されている場合もあるが、いずれにせよ、何も無い‘空白’の純粋性への憧れと名づけることも出来るだろう。空白は、本編中の、広場の茫漠たる空白や、白い服を着た人々の群れ、といった映像に頻繁に表れており、言わばこの映画は、白紙の上を往き来する影絵のような、ニヒリズムに浸されたイメージ群なのだ。

絶えず誰かが喋り続け、他人の話が止めばグイド自身の独白が始まる。言葉、言葉、言葉に充たされていながらも、ただ空しく、それこそ虚空を浮遊するように飛び交う声たちは、殆ど意味を成さないが故に、その騒がしさは奇妙な静寂のようにも思えてくる。

他者の介入に晒されるのは、耳だけにとどまらない。視界を遮るかのように、カメラの前に頻繁に人物がぬっと現われる。カメラのすぐ前に立つ人物と後景の遠近感を強調したショットは、流麗なカメラワークと相俟って、動的な美を完成させる。その計算された動きには、殆ど曲線美を感じるくらいなのだが、また、余りに完成されているが故に、絶えず動き回っているようなカメラワークとカット割りにも関らず、奇妙に静的な印象さえ感じさせられる。

この、騒然としていながらも静謐な、葬式じみた雰囲気は、本作に多分に影響されたと思しき『フルスタリョフ、車を!』や、当のフェリーニの『フェリーニのローマ』などと見比べてみれば更によく分かる。

グイドの制作態度に向かって他人から浴びせかけられる、「エピソードの羅列に過ぎない」、「個人的な思い出に観客が興味を持つと?」といった言葉は、完全に当の『8 1/2』そのものに対する自己言及的な台詞である。こうした熾烈な問いかけに自らを撃たせる、言わば自分で自分を機銃掃射しているような、自己破壊性の極み。

この映画を観終えた後、一つ一つのイメージの鮮烈さに思いを馳せながら、それが同時に孕む絶対的な空虚にも思い致さずにはいられない。そして、素晴らしい映画だった、という思いがそのまま、そもそも映画なるものは、存在する意味があるのか?という、肯定即否定のような感情に見舞われてしまう。

だが、この空虚感は、苦いものではなく、暗いものでもなく、むしろ奇妙に澄みきった、清々しい気分にさせてくれる。映画は、必ずしも存在する必要など無いのかも知れない。だが、それとまったく同等の意味に於いて、今、この耳と目が触れている現実もまた、何か存在すべき理由があって存在しているわけではないのかも知れない。フェリーニは、自らがそうである、映画監督という存在を通して、観客に、彼ら自身の人生への白紙委任状を手渡す。

映画が存在すべき理由があろうと無かろうと、監督は創り続けるしかない。そして、意味があろうと無かろうと、人は生きていくしかない。なぜなら今、現に生きているのだから。生きている、とはつまり、その耳目に世界が触れているということだ。

この映画の持つ不思議な軽さは、軽薄さなどでは断じてなく、むしろ、人生の重みに、一枚の白紙のような軽やかさを与えるという、映画の奇蹟、フェリーニの魔法なのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)irodori 寒山拾得[*]

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