[コメント] ベニスに死す(1971/伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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一度はヴェニスを去ろうとしながらも、荷物の送り先の手違いのせいでホテルに戻るアッシェンバッハ。駅で待つ彼の顔に幾度も浮かびかける笑み。そこに、疫病に罹ったと思しき男が倒れ、動揺するアッシェンバッハ。そうした一連の表情の変化も愉しいが、それらに先立ちまず、駅へと向かう船上で、ヴェニスを去るという選択に納得しきれていないような、といって確固たる後悔の念を抱いているわけでもなさそうな、曖昧で微妙な表情。ホテルへの帰還が決まった後の安心した表情は、タジューへの執着に加え、曖昧な感情に明確な答えが与えられたことの喜びにも拠っているように思える。
アッシェンバッハは、英語で話している割には、「マルクをリラに」両替するなど、原作通りのドイツ人という設定の様子。またタジューも、原作ではアッシェンバッハの知らない言語を話していることで、よりその存在の抽象性、神秘性を高めているのだが、普通に日本語字幕を付けられると興醒めだ。別に、観客の方で理解する意味のあるようなことを話しているわけでもないのに。
原作では地の文で芸術談義が展開していたが、それを映像に置き換えるためだろう、主人公の友人という存在が加えられ、彼が回想シーン内で口角泡を飛ばしてアッシェンバッハに食ってかかるが、彼のオーバーアクションに加え、この手の議論に英語の似合わないことといったら。原作のアッシェンバッハは、世の模範となるべき文化人として評価されている一方で、ヴェニスを覆う疫病という災厄を内心歓迎する一面があったりと、破壊的でデモーニッシュな衝動がかなり明確に描かれている。映画ではその一面を、回想シーンの友人という形で分離したせいで、純粋さを求めた結果、聴衆からも見放される道徳的な芸術家という人物像に至ったように見受けられる。原作のアッシェンバッハには、ディオニュソス的な狂乱の幻覚を見る場面さえあるが、これは幾らか、映画の終盤での、荒廃したヴェニスのシーンに反映されていたのかもしれない。
娘の死という挿話は、劇中で楽曲が使用されているグスタフ・マーラーの生涯を引用したものだろうが、作品全体にとって大した意味があったようには感じない。ただ、原作では功成り名を遂げた作家という設定だった主人公を作曲家に変更したのは、映画に実際に挿入しうる音楽の作り手とすることで、原作同様に、主人公の職業と、作品の形式とを一致させるための工夫だったに相違ない。
浜辺でアッシェンバッハが、タジューの姿を見ながら仕事を行なう場面は原作にもあるのだが、映画では、ショットの左側で、白いタオルを身にまとったタジューが、左肩を露わにし、ギリシア彫刻のような後姿を見せ、ショット右側のアッシェンバッハとショット内で同居することで、原作の「タジョのいるところで仕事がしたい、書くときには少年のからだつきを手本にして、文体を神のような気のするこのからだの線に従わせたい」(関楠生訳)という一節を可視化している。また、アッシェンバッハがタジューに触れようとしながらもその勇気が出ない場面では、タジューが複数の柱を片手で掴んで体を回転させてみせるという、誘うような動作が夢幻的。
いたる所で炎の燃える、疫病で荒廃したヴェニスの町で、アッシェンバッハが相も変わらずタジュー一家をストーキングするシーンの地獄絵図、その退廃美は確かにヴィスコンティのもの。終盤でアッシェンバッハが、美容院で若返りの美容法を施されるのは原作通りだが、映像的なインパクトを狙ってだろう、白粉がかなりグロテスクに塗り込められている。これはまた、ヴェニスへ向かう船上で、若い仲間に合わせて若作りしていた酔っ払いの老人とアッシェンバッハが二重写しになる場面でもある。尤も、原作ではこの老人の様子と、アッシェンバッハの嫌悪はもっと印象的に描かれていたのだが。疫病のことを知ったアッシェンバッハ自身にとり憑いた死相を覆うような白粉は、既に死に化粧のように不気味に映じる。原作では、アッシェンバッハが、出逢ったばかりのタジューの姿に、「長くは生きられないだろう」と死の予感を見てとり、そこに密かな満足を覚える場面があるのだが、映画ではタジューは飽く迄も、空と海の永遠を指し示す存在として扱われている印象。
ラストシーンで、絶対的な美としての太陽と海と溶け合うタジューを見つめるアッシェンバッハが、髪染めが汗で流れ、黒い液を血のように流しつつ死んでいく姿は、映像として、純粋な美と、それに永遠に憧憬し続ける退廃美を極めていて、このラストだけは原作に完全勝利した観がある。
アッシェンバッハが初めて画面に登場した時、彼はヴェニスへ向かう船上で、独り座っている。浜辺でも、若いタジューらのように快活に走りまわることは無論なく、椅子に座ったまま、ただタジューと海を眺めている。こうした静的な人物であるからこそ、タジューの姿を追ってヴェニスを歩き回り、遂には肉体が追随せず、座り込んでしまう無様な努力が際立つのだ。
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