[コメント] ストーカー(1979/露)
映画を見終った人むけのレビューです。
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初っぱなから妙な書き出しだが、愛情の反対語は「憎しみ」ではない。
その2つはどちらも外向きのベクトルを持つ強いエネルギーだ。ここでいう愛情の反対語は「恐れ」。内側に向かっていくベクトルで、愛情や憎しみとは異なり、自己の内面に深く深く関わっていく「恐れ」という感情だ。
私が思うに(面倒なのでこの「私が思うに」は以下省略)、この作品に込められた思いには「人という種の変質」が関わっている。タルコフスキーの名作『惑星ソラリス』は極上のラブストーリーであると共に「世界」の定義に関わる重要な主題を描いている。同様に『ストーカー』ではゾーンにまつわる話を軸に「人」という「種」もしくは「事象」を深く掘り下げていると思うのだ。
とても分かりにくいと思う。作品ではなく、私の話が――だ。
それは承知している。もちろん私の作品ではないのだから、全てはただの戯言だ。けれど、私は「そう観た」。そう観た私は話の展開に何の疑問も持たなかったし、その表現には鳥肌が立つような感覚を覚えた。2時間40分の長丁場、一瞬たりと気を抜くことが出来ない極上の時を過ごしたのだ。では、私はそこに何を見たのか。それが「恐れ」と「そこからの開放」だ。
さて考えるに、作中ゾーンにはいったい何があったというのか? 何もない。あるのは水だけだし、怪物がいるわけでも殺人鬼に襲われるわけでもない。ただ廃墟を、ナットを投げながら遠回りして歩いただけだ。危険というならゾーンに入る事の方がはるかに危険だ。だがゾーンには明らかに「恐れ」がある。
それは当初「未知」に対する「恐怖」だったかも知れないが、徐々にそのベクトルは内側に向き、ゾーンの「驚異」でも「危険性」でもなく(事実危険な事など一度も起きていない)、自分の中に潜む「恐れ」と対峙しなくてはならなくなる。
例えば、人は外的な危険に対して武器を取ることができる。だが拳銃も爆弾も、内向的な「恐れ」に対しては全く無力だ。でも闘わなくてはならない。その様子は克明に描かれている。話し、怒鳴り、怯えることで。教授も作家も自らのアイデンティティを「恐れ」から守ることに必死なのだ。
ではその「恐れ」の正体は何か。思うにそれは「無」だ。恐れは人を萎縮させていく。肉体も精神も柔軟性を失い、小さく、固くなっていく。作中でも語られる通り、硬直は「死≒終焉」と隣り合わせだ。では「死」とは肉体的な終末か。否。死とは自我の消滅。ここでいうところの「恐れ」はすなわち「無我へ向かう恐怖」だ―と私は思う。
「部屋」への旅は、いわば悟りへと向かう修行のようなものだ。ストーカーは無我への道のりを案内し、案内される側は道中自らの内面と対峙しながらその精神世界をむき出しにしていく。あいにく私はロシア語が分からないので事実は不明だが、字幕にある「本性」は「本質」と読み替えると分かりやすい。訳者には悪いが「本性」と「本質」は似て異なるものだ。
赤ん坊は無垢の状態で生まれてくる。まだ自我は確立しておらず、その生命は全体と一体化しており外も内もない。やがて人は社会と交わることで、自分と他人との間に線引きを始める。ある時は常識や規範で、ある時は論理で、人は自らのアイデンティティを確立し、その内側に精神をしまい込む。そう、作家が「人間が物を書くのは苦しみ疑うからだ」と気づいているように、「ずっと遠慮ばかりしてきた」教授が部屋を前にして「もう何も恐れてはいない」と言うように。
教授と作家の会話は、互いに他者を攻撃しているようでいて、その実、恐れで殻が砕け、自らの精神、すなわち自我が崩壊してしまうことに、必死で抗っているように見える。負けは死を意味する。だが怪物に喰われる訳ではない。むき出しの自分と対峙し続けることができなかったという、ただそれだけのことなのだ。
「ヤマアラシ」のエピソードは作品中もっとも重要な要素を含んでいる。
彼は何故死んだのか―ではなく、彼は「どのようにして」大金持ちになったのか―が、だ。妙だとは思わないだろうか。全編リアリズム溢れた作りの中で、「ヤマアラシ」の家に金貨が降ってきたとでも言うのだろうか?
答えはちゃんと語られている。「彼は金持ちに“なった”」のだ。「どうやって」とか、「なぜ」ではなく、彼は自らも周囲からも「金持ちであると認識された」のだ。そしてそれは認識された時点で、事実となり、理由や原因とは切り離されたところで事象として存在している。これはまさに『惑星ソラリス』の海が行ったと同じ考え方だといえる。(『惑星ソラリス』の[review]も見てね。)
「ヤマアラシ」は「利得を目的に」ゾーンに入った。それは「本性」であったかもしれない。だが作家が言うように「(部屋で)叶えられる望みは無意識の物」であるというのであれば、それは「利得を欲しがったのが彼の本性」ではなく、部屋に至る道のり内向し続け、むき出しになった「彼の本質が望んだのが利得だった」ということなのだ。
「求めよ、さらば叶えられん」
ストーカーがゾーンから戻り、ベッドで悪態をつくシーンをもう一度見て欲しい。彼は、教授や作家の鎧の正体を知っているのだ。
人はゾーンを通じ、自らを開放していく。それが個々人において心地よい物かどうかは別として、人という「種」は、無我である誕生期を経て、自我を確立し、今まさに硬直し終焉を迎えようとしている。その案内人としてのストーカーは、繰り返し繰り返し、自らの精神世界を旅し続け、その娘は新しい命を持ってして、私たちのこの星を継いでいくのだ。
もう分かっていただけたと思う。1968年キューブリックとクラークはベクトルを大きく外側に向け、モノリスを通して木星の彼方に新しい人類の夜明けを描いた。その11年後、タルコフスキーはそのベクトルを深く内面に突きつけ、ゾーンを通して同じ主題を描いたのだ。
『2010年』2つの太陽は人類から闇を取り払い、やがて「闇の恐れを知らない」子供達の未来がやってくる。それが「Somethig Wonderful」だ。『惑星ソラリス』と合わせ見るに、私にはタルコフスキーの方がキューブリックより柔軟な世界観を持っているように感じられるが、それでも人という種の本質や未来を描くという意味で、東西に別れた両者は全く同じ地平に立っているのだと私は思う。
ゾーンに着いた冒頭、ストーカーは「潮時を計る」といって草むらに横たわる。その姿はまるで瞑想に入る修行僧のようだ。その後の教授と作家の会話はまるで『2001年宇宙の旅』を見ているようだ。
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「隕石でないとすると何ですか?」
「同僚の考えでは人類へのメッセージ、または贈り物だと」
「贈り物ならありがたいが、何のための?」
「幸福のためでしょう」
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Somethig Wonderful
私はこの映画を観たことを生涯感謝するだろう。それと言うことなく、映像だけでこれだけの(実はこの数倍の)ことを私に思い至らせた、観念的SFの金字塔である。
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