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[コメント] フェーム(1980/米)

誰もが主役である残酷。誰も主役ではない暖かみ。(2007.4.27)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この映画のカットの割り方、あるいは音楽の入れ方、というのは、まぁ色々意見はあるかもしれないけれど、これは断言できるというラインで言ったとしても、不自然。というのは、唐突だとか大袈裟だとかそういう「ミュージカル的」という意味での「不自然」(それはミュージカル映画としては「自然」なのだろう)なのではなく、むしろ「ミュージカル」という基準からしてもより不自然なのだ。空間の移動・時間の移動・視点の移動、そういったものが明示されないまま錯綜しているし、しばしば音楽がそういう境界をまたがって流れている。しかもそれが盛り上がりを意図した交差や相乗としてというよりも、見る側の安易な感情移入を拒むような、寸断や融解として行われているのだ。

 たとえば、「食堂のおばさんの歌」のシークエンス。ユダヤ人の女の子が不安の表情で食堂に入る→食堂中のバラバラな演奏の中からリズムが生まれる→ミュージカルシーン→慌てて食堂を出る女の子、とこの場面は展開される。不安の眼差しで捉えられた学生たちの喧騒が、いつの間にかまばゆい一体の奔流に変わり、そして再び、さっきまで熱気に彩られていた音楽が途端によそよそしい喧騒に戻る、といういわば非‐流れ。このシークエンスにおいて、女の子の側と食堂の喧騒の側は一体にならないし、どちらかが主でもどちらかが従でもなく、両者はただ「ある」だけだ。このシークエンスの間、一貫した感情移入は不可能であろう。

 そしてラスト。驚くべきは、この卒業式が誰のどのエピソードにとっても何ら節目でもないということだ。それはただ訪れる。入学式という始まり、学年という区切り、卒業式という終わり。この映画では、群像劇を取りまとめる時間軸として、一切の主観と無関係な均質な時間のみが据えられている。ある人物についてのドラマが他の人物のドラマに従属したりするということはこの映画では起きない。いかなる集約も対照もここでは立ち現れない。相互に手段化されないがために、それぞれのエピソードはどれもむき出しのまま投げ出され、投げ出されたままであることさえしばしばである。そうしてエピソードたちの都合とは無縁に、唐突に卒業式が行われ、ぱたりとエンドロールが始まるのである。

 「青春群像」と呼ぶには、あまりにも淡々としたこの眼差し。しかし、この眼差しはどこから来ているのか? 青春群像でしばしば謳われる「誰もが主役」とは、全くの語義矛盾でしかない。誰もが主役であるその時は、すなわち、もう誰も主人公ではないのだから。この矛盾を耐え抜くには、「誰も主役ではない」という事実から出発して「誰もが主役である」そのことに向かうしかないだろう。残酷な認識へと一度迂回することでのみ肉薄された、血の通った息づかいが、ここにある。不朽の青春映画。

(評価:★5)

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